【河内長野市】河内長野一のお花見スポット奥河内さくら公園の謎の石碑に、鉄道と長野遊園に関係する秘密が
私は一昨年の9月から毎日記事を書き、今では560本以上となりました。それだけ記事を書いていると、私に場所の疑問などを調べてほしいとリクエストをしてくださることがあります。今回は次のような内容のメッセージをいただきました。
このメッセージとともに、トップ画面の石碑の画像を送ってくださいました。石碑は街歩きしてよく見かけますが、難解な文章が多いのは確かです。これは非常に気になりました。
さすがに私が石碑の評価などはできませんが、いったい何が書かれているのでしょうか?それなら確認できます。さっそく現地に向かってみました。
とりあえず河内長野荘の前に着きました。ここから遊歩道を奥河内さくら公園まで歩いている途中に、石碑に向かう小径があるはずです。
このスロープ状の道を登っていきます。
途中で下を見ると、桜が咲いていました。先週の取材なので、今は満開なのでしょうね。
スロープを上がっていくと、上の広場が見えてきました。奥河内さくら公園の広場です。
その直前で登った道を振り返ると、右側に未舗装の小径があります。謎の石碑はこの小径の先にあります。
石塔の奥にある道を歩いていくと、
大きな石碑が見えてきました。これがリクエストがあった石碑です。
小径のいちばん奥にあり、普段は人目につかないようなところにひっそりと立っていました。
こちらがその碑文です。漢字だけで書かれています。漢文でしょうか?
「徳華流芳」というのが、いちばん上に大きくかかれていますが、このなかで「流芳」というのは「名を後世に残すこと」「後世に伝わる名声」という意味があり、ある事象を未来の人に残すために、この石碑が建てられたのがわかります。
石碑の最後に1933(昭和八年)五月とあるので、そのときに建てられたもののようです。
とりあえず、石碑の文章を文字に起こしてみました。ただし文の中に判読不明の文字がありますし、判読できても普通は使わないような難しい漢字が混ざっています。また、何度か見直したものの、光の加減で字を見間違ってしまった可能性があります。
二行目をみると「吉年作兵衛翁長野町」という文字があります。
吉年(よどし)といえば、河内長野駅から高野街道に入るときに吉年邸という大きなお屋敷があるように、当時の有力者だということがわかります。
また1718(享保3)年に創業した上原西町にある(株)吉年についても、現在の経営者は違いますが、もともとは名字が同じ吉年与右衛門が創業したお店です。
調べると吉年与右衛門が鋳物108人衆のひとりであった田中氏から事業を受け継いで、鍋・釜・農具などの製造を始めたそうです。
いずれにせよ吉年家が古くからこの地域とかかわりが深いことがわかります。
さらに石碑にあった吉年作兵衛を調べると「伊勢神戸藩長野村代官」という情報が出てきました。
伊勢神戸(かんべ)藩は現在の三重県鈴鹿市神戸周辺にあった藩で、織田信長の三男神戸信孝が修築した神戸城があります。
ここまで書けば、河内長野とは一見無関係のように思いますし、そもそもなぜ鈴鹿の大名の代官が河内長野にいるのでしょうか?
これは、江戸時代中期に河内長野市内に存在した河内西代藩の藩主、本多忠統(ほんだ ただむね)が配置換えとなり、伊勢神戸藩主に変わったことが関係していると考えられます。
幕末の資料では、当時の長野村を含めたいくつかの村は神戸藩の領地だったようなので、吉年作兵衛が長野村で代官をしていても不思議ではないということですね。
つぎに3行目をみると「高野鉄道」の表記があります。これを調べると、今の南海高野線のきっかけとなった鉄道会社で、堺から西高野街道に沿いに高野山を目指した鉄道会社として1896(明治29)年に設立されました。
その2年後、1898(明治31)年には、現在の堺東駅に当たる大小路駅と狭山駅間が開業しましたが、同じ年に現在の河内長野駅である長野駅まで路線が延長されたそうです。
さらに調べると、高野鉄道設立には現在の河内長野地域に住んでいる8名の発起人がいて、合わせて1000株所有していたそうです。その発起人の中で出資がいちばん多いのが、吉年善作の200株で、そのほかに吉年忠三郎100株という記録がありました。
この資料には吉年家の名前が出てきますが、どの人も作兵衛という名前ではないのが気にかかりました。
このように調べていくと、ようやくこの石碑そのものについての情報を見つけました。この石碑は「吉年氏顕彰碑」といわれるもので、長野町の吉年作兵衛さんが、高野鉄道のさらなる延長に協力したということを書いてあるそうです。
高野鉄道の延伸についてを調べてみると、現在の汐見橋駅にあたる道頓堀駅から大小路駅までの延伸が1900(明治33)年に行われたことで、高野鉄道が大阪市内に乗り入れます。これは河内長野から大阪市内まで鉄道で行けるようになったことを意味します。
その2年後の1902(明治35)年中には、現在の近鉄長野線に当たる大阪鉄道が富田林駅から滝谷不動駅さらに長野駅までを延伸しましたが、そのときにも吉年作兵衛が協力したという情報がありました。
つまり南海や近鉄の河内長野駅ができることに大きな影響を与えた人物が吉年作兵衛ということですね。
吉年作兵衛の活躍はそれだけではありません。情報によれば1908(明治41)年に、地域住民が大阪市内や堺から長野(河内長野)まで、旅客を誘致しようとして作ったのが、現在の奥河内さくら公園の前身にあたる高野登山鉄道長野遊園地です。
この長野遊園地にはかつて観覧車などもあったそうですが、今でも長野遊園の名残りが桜の木がです。
この桜の植樹に尽力したのが、これも吉年作兵衛だというのです。
つまり吉年作兵衛が桜の植樹のために力を貸さなければ、奥河内さくら公園は今のように桜の名所にはならなかったということになりますね。
だからこそ、当時の人たちが公園の入り口に吉年作兵衛さんを称えるための石碑を建てたのでしょうね。
石碑の終盤には晩年の様子も書かれているようです。とにかく後世の人に、吉年作兵衛という偉人のことを伝えたいという思いで、1933(昭和8)年に設置したのがこの石碑というわけですね。
さて、では誰がこの漢文を書いたのでしょうか?白い文字で囲ったところの上の部分を見ると、藤澤章士と書いてあります。
藤澤章士という名前では直接情報が出てこなかったのですが、以下可能性のある人物として、藤沢章次郎という人の名前が出てきました。
この人は関西大学の教授でかつ漢学者です。さらに関西大学で初めて名誉教授になった人ですが、経歴を見ると1929(昭和4)年に教授になったとあり、この石碑と時代がほぼ一致していること、またこの人の父親が藤沢南岳(ふじさわ なんがく)というのも気になりました。
藤沢南岳は、以前こちらで紹介しましたが、現在河内大仏のある極楽寺の入口にある三笑橋の石碑を書いた人です。さらに南岳の娘が当時極楽寺温泉に通っていたこともあり、河内長野とは深いつながりがありました。
これ以上の情報がないので、残念ながら推測の域を離れませんが、娘さんというのは藤沢章次郎さんの兄弟姉妹でもあることから、そのつながりも考えられなくはないですね。
というわけで、石碑を解読しながら秘められた内容を紹介しました。もちろんこの後は、奥河内さくら公園で桜を見てきました。最近、回廊風の展望台の屋根を青く塗りなおしされたので、とてもきれいになっていました。
さて、奥河内さくら公園から見下ろすところにあるイズミヤSC河内長野にはゆいテラスがありますが、4月2日日曜日に2周年を迎えます。というわけでこの日はゆいテラスのバースデーフェスティバルが行なわれます。
桃山学院大学を中心に大学生や企業・団体の方などがインストラクターとして、様々な体験やワークショップが行われます。模型の鉄道を使って遊ベるスペースや食べ物もあるので、奥河内さくら公園でのお花見のついでに行くのもよいですね。
また同時開催で行われる植本祭では、おすすめの本を持ち寄って魅力を紹介するという催しも行われます。
奥河内さくら公園に花見に来るついでに、少しだけ寄り道して、美しい桜の植樹に尽力した偉人の石碑を眺めてみてはいかがでしょうか?
奥河内さくら公園の外れにある吉年氏顕彰碑
住所:大阪府河内長野市末広町
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩10分
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