徳川家康が唯一愛した美少年は最強!昼は戦場で夜は寝室でご奉仕した「井伊直政」のエピソード紹介
戦国時代に流行した「男色(衆道)文化」は、性愛や主従関係を深める行為として当時は一般的に行われていました。
織田信長や武田信玄も男性小姓と肉体関係を持っていたといわれています。
一方、徳川家康は男性同士の関係を好みませんでした。
今回は、そんな徳川家康の心をも虜にした美少年・井伊直政についてみていきましょう。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています
・愛された井伊直政
井伊直政は、徳川家康に仕えた家臣のひとりです。
女性のように可憐な美少年だった井伊直政は、男色趣味のない徳川家康が一目惚れするほどの美貌を兼ね備えていました。
徳川家臣のなかでは女性のように大切に扱われた井伊直政ですが、他者を圧倒する実力で戦場を支配。初陣の芝原合戦でも、徳川家康の寝室まで侵入してきた武田勝頼のスパイ数名を処分するなど、主君の窮地を救っています。
その後も数々の戦場で功績を挙げ続けた井伊直政ですが、とある戦場で銃撃される事件が発生。
このとき、負傷した彼をみた徳川家康は実の息子を差し置き、優先的に介抱したという逸話も残っています。
・井伊の赤鬼
数々の戦場で猛威を振るった井伊直政は、自ら率いる精鋭部隊の武具を赤く染めた「赤備え」で統一。
武田家が起源の赤備えは、武田信玄や真田幸村など歴史に名を残す猛者が継承したことで知られています。
これには敵味方を判別しやすい点や視覚による威嚇効果、武具統一により生まれる団結力が期待されました。
この赤備えを初めて披露したのは、1584年「小牧・長久手の戦い」でのこと。
長槍で敵を蹂躙する様は赤鬼に例えられ、諸大名を震え上がらせました。
その後も経験と功績を積んだ井伊直政は、単騎最強で知られる徳川四天王・本多忠勝のライバルにも認められています。
愛知県岡崎市には、今回紹介した井伊直政の像が設置されています。
ぜひ訪れみてください。