Yahoo!ニュース

ウィル・スミス新作で来年のオスカー狙うAppleの思惑

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

 ウィル・スミスの周辺が、またもや騒がしくなりそうだ。彼の次回主演作「Emancipation」が、急遽、12月2日に劇場公開されることになったのである。製作はAppleで、1週間後の12月9日にはApple TV+で配信開始となる。

 投票時期に近く、投票者の記憶に新鮮に残りやすい秋から年末にかけては、賞狙いの作品を公開するのにうってつけの時期。死にそうになるまで鞭で打たれ、勇気を持って脱走した実在の奴隷についてのこの映画は、アメリカの黒い歴史に目を向ける意義あるものと思われ、有力候補になるだろうと早くから予想されていた。通常であれば、この公開日が選ばれたことには何の不自然もない。

 だが、今の状況は通常とはほど遠い。主演のスミスは、今年のオスカー授賞式でクリス・ロックに平手打ちをし、全世界をショックに陥れたばかりなのだ。品位ある授賞式で暴力をふるうというとんでもなく野蛮なことをしたスミスには、業界内外からも、黒人のコミュニティからも強い非難が寄せられ、スミスは自主的にアカデミーを退会した。アカデミーは、今後10年間、アカデミー主催のイベントに立ち入り禁止の処分をスミスに与え、スミスもこれを受け入れている。

 もちろん、オスカーに候補入りするかどうかにアカデミー会員であるかどうかはまるで関係がないし(オスカーに候補入りしたおかげで、その後アカデミーから新会員に招待されるということはよくある)、授賞式に出席しなくても受賞するということもある(たとえばウディ・アレンは良い例だ)。しかし、それもまた、あくまで通常の場合。スミスの行動に強い不快感を覚えた人は実に多く、その後味の悪さはまだ完全に消えていない。10年の出入り禁止という処分は甘すぎたとの声も聞かれるのである。

 事件の直後にすぐ正しい処置を取らなかったアカデミーに対する不満や不信感も、いまだに残る。あれは、誰もが忘れたいと思っている、アカデミーの歴史で最悪の汚点なのだ。今年新たにアカデミーのCEOに就任したビル・クレイマーも、あの出来事については「あのようなことは二度と起こらないようにする」としか語らない。なのに、その事件を起こした当人が、早くもまた賞レースに出てくるというのだ。それはあの忌々しい記憶を呼び起こすことになりかねない。

 投票者の中には、こんなにすぐスミスに賞をあげるなんてありえないと、断固拒否する人もいるだろう。その人たちが多数派なのか、少数派なのかはわからない。それを承知で、一時期、Appleは、「Emancipation」の公開を来年まで延期することを考えていた。それでも、ここへ来て賭けに出ようと決めたのである。

Appleが賭けに出るいくつかの理由

 おそらく一番の理由は、作品への自信だろう。今作でのスミスの演技は、早い時期に行ったテスト上映でも非常に良かったと報道されている。先週土曜日、米国議会黒人議員連盟に向けて行われたプライベート試写でも同様だったようだ。近年は「Black Lives Matter」運動が大きな盛り上がりを見せたし、ここ7年、アカデミー自身も多様化に向けて熱心な努力を続けている。そんな中で、アントワン・フークアが監督する今作は、とてもタイムリーである。

 また、やはりオスカー狙いと位置付けられているマーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ、ロバート・デ・ニーロ出演の「Killers of the Flower Moon」の完成が間に合わず、来年に持ち越されたというのも、少しは関係しているかもしれない。ライバルはほかにもたくさんいるとはいえ、有力視される候補がひとつでも減ったのは、ラッキーなことに変わりはない。さらに、Appleは今年、「コーダ あいのうた」で、同社の歴史で初めてオスカー作品賞を受賞したばかりでもある。まだ喜びと感動に浸っている彼らは、ぜひ来年もと勢いづいているのではないか。そう、別に主演男優賞を取れなかったにしても、作品賞を取れれば良いのだ。スミスに抵抗を持つ投票者がスミスに入れなかったにしても、作品が優れていれば、作品部門には投票してくれるかもしれない。そうなれば万々歳である。

 もうひとつ、スミスの新作で賞レースに挑むというだけで、良くも悪くも確実に注目はされる。事実、今もこうやって人々はこれが良い戦略なのかどうなのかを論議している。「悪い宣伝などというものはない」と言われるが、それが真実かどうかはさておき、何かが理由で話題になれば、多くの人は興味を持つものなのだ。しかし、実際に票を集められるかどうかは作品の実力次第である。その肝心の部分は、果たしてどうなのだろうか。あと2ヶ月で、それはわかる。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「シュプール」「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

猿渡由紀の最近の記事