ヘイトスピーチ規制と永田町騒音問題
反原発デモが標的?
8月29日、国連の人種差別撤廃委員会は、日本に対してヘイトスピーチを規制する勧告を出しました。同委員会は7月にも同様の勧告をしており、これが2度目になります。自民党もこうした状況を受けて、28日に「ヘイトスピーチ規制策を検討するプロジェクトチーム(PT)」を発足させました。メンバーのひとりである高市早苗政調会長は、「特定の国家や民族を口汚くののしるのは日本人として恥ずかしい」と、ヘイトスピーチに対し厳しい態度で望む姿勢を強調しました。
しかし、こうした報道のなかには、ネットをザワザワさせるものもあったようです。というのも、この会合のなかで高市さんが国会周辺の街宣やデモの規制を匂わす発言をしたからです。
中日新聞は、高市さんの発言が反原発デモを標的にしたものとしてとらえたようです。これを受けて、左派や反原発派などは「ヘイトスピーチ規制に便乗したデモ規制だ!」と怒り、対して、ヘイトスピーチを支持するネット右翼や排外主義者などは、それを見て「ざまぁ」と嘲笑しています。ネット上ではよく見る光景です。
しかし、高市さんの主張は、単純にデモ規制だと見なしていいのでしょうか?
永田町の騒音問題
私は、しばしば仕事で永田町に足を運びます。国会や政治家の取材ではなく、国会図書館で調べものをするためです。多いときには、年に20回ほど行っていたでしょうか。午前中から19時の閉館まで、丸一日過ごすことも少なくありません。そうすると、図書館内にいるにもかかわらず、永田町がいかに騒音に満ちた街かがよくわかります。
毎度うるさいのは、右翼の街宣車です。大音量で軍歌を流しながら、がなり声でメッセージを発します。それが延々と続くのです。国会図書館はコンクリートで造られた頑丈そうな建物で、もちろん外からは遮蔽されていますが、それでも聞こえてきます。とにかくうるさいのです。一日中あの騒音を聞いていると、ヘトヘトになります。
ちなみに、国会図書館とは日本で発行された出版物をすべて保管している図書館です。最近はデジタル化がとても進み、非常に使い勝手が良くなりました。そんな国会図書館は、国会議事堂から道を一本挟んだ北側にあります。しかも閲覧室の広い新館は、国会議事堂からさらに離れた場所にあります。距離にすれば200~300メートルほどあるでしょうか。しかし、それでも右翼の街宣車はグルグルと永田町を走りながら大音量を撒き散らします。おそらく国会図書館の西側のブロックに、自民党と民主党の本部や参議院第二別館があるからでしょう。なお、議員会館は国会議事堂の真向かいに存在します(詳しくは地図をごらんください)。
高市さんが「(騒音で)仕事にならない」と述べるのは、こうした永田町の状況を知っている身からすると、実はかなり納得できます。本当に頭にくるほどうるさいからです。私は、これがデモ規制ではなく騒音規制ならば、十分に検討すべき問題だと思います。
ヘイトスピーチと騒音は別問題
ここまで私の体験に基づいて右翼の街宣車の話をしてきましたが、中日新聞等の報道によって、この高市さんの発言はヘイトスピーチ規制に便乗した(反原発等の)デモ規制として捉えられました。たしかに、国会周辺の騒音を考えるならば、毎週金曜日に国会前で行われる反原発デモが含まれていると考えてもおかしくはありません。と言うよりも、ヘイトスピーチではなく騒音を基準に考えるのであれば、思想内容に関係なく公平に考えなければなりません。
また、この騒音問題をヘイトスピーチ規制のための会合で持ち出すのは、文脈的には一見おかしいように思います。本来的に、ヘイトスピーチと騒音は別問題だからです。
たしかにヘイトスピーチは、物理空間における音量の多寡の問題ではありません。今後は、国連の人種差別撤廃委員会も求めているように、ネットにあふれるヘイトスピーチについての措置も検討されるはずです。つまり、ヘイトスピーチ規制の要点は、そのヘイト(憎悪)の質(内容)にこそあるのです。たとえ小声でもヘイトスピーチとなるのです。ですから、騒音の問題とは確実に切り離して考えなければなりません。
一方で、騒音問題が持ちだされた理由もなんとなく想像がつきます。というのも、たとえば「ほめ殺し」のように、スピーチ内容がヘイト的なものではなくても大音量でそれを繰り返せば、十分な嫌がらせになりうるからです。つまり抜け道をいかに潰すかということも想定されているのかもしれません。静穏保持法(後述)の話が持ちだされているのも、そのためかもしれません。
なんにせよ高市さんが、なぜ騒音問題をヘイトスピーチ規制PTの会合で持ちだしたのかはわかりません。が、高市さんは反原発デモだけを狙い撃ちにしようとしたのではないように思います。前述したように、国会周辺でもっとも騒音をまき散らしているのは、右翼の街宣車だからです。
ちなみに国会周辺の騒音に困っているのは、高市さんが所属する自民党の議員だけではありません。永田町には、民主党も社民党も共産党もみんなの党も日本維新の会の議員もいますし、なにより私のような国会図書館ユーザーもいるのです(住居はほとんどありませんが)。こうしたことも踏まえれば、この高市さんの主張は違ったものとして見えてくるかと思います。
ふたつのデモの方法論
さてここで、騒音問題と社会運動との関係について考えたいと思います。
右翼の街宣車にしろ反原発デモにしろ、これらはともに公権力や世の中にメッセージを投げかけ、何らかの変革に繋がる動きを目的とするという点で、社会運動(あるいは市民運動)だと捉えられます。
こうした街頭での社会運動(デモ)の方法論とは、大きく分けてふたつあります。ひとつが直接伝達で、もうひとつが間接伝達です。
直接伝達とは、デモを行うひとびとがみずからの主張を権力者に直接かつ示威的に伝えることを指します。議員会館にいる政治家が外のデモを見て批判を知る、といったことです。
次に間接伝達とは、「デモが行われた」という事実を、デモに参加していないひとびとにメディアを通して間接的に伝えることを指します。いわばパフォーマンスです。議員会館にいる政治家も、テレビやネットを通して批判を知るのです。
この両者は、新聞、ラジオ、テレビと進展してきたメディアの発達によって、前者から後者へと比重を移してきました。インターネットが普及した現在は、間接伝達の比重がさらに増したことは言うまでもありません。
こうなると、当然社会運動の成否を大きく左右するのは、街頭デモにおけるパフォーマンスの質ということになります。つまり、デモに参加していないひとがいかに興味を示し、賛同するかが勝負となるのです。
ここで右翼の街宣車と反原発デモに戻ります。果たして右翼の街宣車は、あのような大音量でパフォーマンスとして成功しているでしょうか? 毎週金曜日の反原発デモもどうでしょうか?
そのとき、ひとつだけ確実に言えることがあります。それは、インターネット時代の現在において、デモの現場で騒音を出すことにあまり意味はない、ということです。デモに必要なのは、決して音量などではなく、多くのひとがその運動を支持して参加したという事実です。だからこそ、デモのなかにはハンガーストライキやダイ・インといったパフォーマンスもあるのです。その事実がメディアを通して非参加者に伝わり、さらに参加者を増やすという循環を導けば社会運動は成功します。そもそも、もし大音量を出すことが社会運動における解ならば、街宣車の右翼はすでに政府を転覆させているはずですからね。
日本の社会運動とは、失敗の歴史でもあります。市民が蜂起しても、ほとんどは権力者に潰されるか、内ゲバで瓦解して終焉を迎えてきました。こうしたことが生じてきたのは、社会運動の方法論を熟知したうえで有効な戦略を構築できる存在がいなかったからであり、同時に、参加者にとって運動するという行為そのものが自己目的化していたからだと考えられます。現在の数多ある社会運動からも、同様のことを強く感じます。
注視が必要なヘイトスピーチ規制法の今後
ここで話を戻しますが、私は、文脈的な問題はあるものの、基本的には高市さんが提案する国会周辺の騒音規制には賛成です。ただ、既に国会周辺の騒音を規制するための静穏保持法が存在することも、報道では伝えられています。
正式名称を「国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律」とするこの法律は、1987年に起きた皇民党事件に端を発しています。詳述はしませんが、これは当時自民党総裁選に立候補していた竹下登氏に対し、右翼団体が「日本一金儲けがうまい竹下氏を総理にしよう」などと街宣活動をした出来事のことです。「ほめ殺し」と呼ばれる右翼団体のこの手法は、当時非常に話題となりました。
こうして制定された静穏保持法ですが、ヘイトスピーチPT会合でも警察庁の担当者が説明したように、摘発は年に一件程度とほぼザル法状態と化しています。なぜザル法になっているかはわかりませんが、国会周辺の騒音問題はこの法律の厳格な施行や改正によって、ある程度は解決されるようにも思えます。
簡単にまとめれば、高市さんや私が訴える不満は「デモは禁止しないが、拡声器や大音量を出す装置は禁止」ということで十分に解決するように思われます。ただ、同時に永田町以外の街の騒音もどうにかしたほうがいいとも思いますが。
最後に――。
ヘイトスピーチ規制法は、非常に保守的な現政権である以上は、やはり国民による十分な監視が必要です。法の文言が抽象的であれば公権力の濫用に繋がるリスクがあり、逆に限定しすぎるとザル法になる可能性があります。表現の自由とのバランスは簡単ではありません。
加えて、もしかすると高市さんが指摘する騒音問題が、今後恣意的に絡んでくる可能性もあるかもしれません。静穏保持法が改正されるのか、それとも新法ができるのか。はたまた、静穏保持法を強化することよって、ヘイトスピーチ規制法がスポイルされるシナリオもあるかもしれません。
今後われわれは、以上のようなことに注意しながら、ヘイトスピーチ規制法の行く末を見守る必要があります。そして私がそこで強く願うのは、日本のひとびとが最初に結論を決めてそこからロジックを組み立てていくような立ち位置ゲームに拘泥することではなく、社会にとってなにが有益なのか、あるいは問題を解決するにはどうすればいいのか、個々人がフェアに考えていくことです。