【3.11】被災地支援バスを12年間運行してきた73歳女性が「今回限り」とする理由は?
東日本大震災から12年間、被災地へ支援バスを出してきた女性がいる。地震発生から約1週間後にバスをチャーターして宮城県石巻市へ支援物資を届け、以来40回にわたってバスの運行に携わってきた。富山市のボランティア団体代表・川渕映子さん(73)は「次の41回を最後とする」と決め、3月10日から3日間、宮城県内を訪問する。被災地を12年間見続けてきた川渕さんの思いとは?
物資や義援金は必ず自分の手で現地へ届ける
川渕さんのボランティア活動の出発点はベトナムである。短大で保育士の資格を取得し、保育所や児童養護施設で勤務していた20代にベトナムを訪問したことがあった。娘3人を育てる主婦となった1996年に再訪すると、まだ多くの子どもたちが物乞いをし、夜になると路上で寝ていた。「戦争が終わったというのに何も変わっていないのはなぜ? 自分にできることはないか」と思った。
川渕さんは帰国してすぐに行動する。自宅1階の倉庫を改装して「夢ひろば」と名付け、ボランティア活動の拠点に。NGO「アジア子どもの夢」を立ち上げた。児童クラブの活動で知り合ったママ友など友人知人に声を掛け、活動を始めた。
支援先はベトナムを皮切りに、スリランカ、中国・四川、フィリピン、カンボジア、ネパール、インド。募金のほか、家庭から集めた提供品を富山市内の「のみの市」で販売、空き缶やペットボトル、鉄くずを集めて換金、ジャム、みそなどの加工品を手作りして販売、チャリティーコンサートなどで活動資金を集めた。
「集まった物資や義援金は必ず自分の手で現地へ届けます。被災者から要望を聞いて『次は○○を持ってくるね』と約束して必ず守る。再び会いに行くことが一番のボランティアです。交流を継続することで被災者の本音が聞けるようになります」
富山市のフリースクールに通う児童・生徒を連れて海外に行くこともあった。
「悩みを抱えた日本の子どもたちは海外に出て被災地の現状を知り、必ず変わっていきます。帰ってきて学校に行けるようになったり、うつむいていた子が顔を上げて行動したりするようになりました」
被災地の子どものための活動が、日本の若者にも影響を及ぼすようになっていた。
「被災直後は甘い飲食物が求められます」
海外の子どもの支援を続けて15年が経った2011年3月11日、東日本大震災が起こった。当時、日本全国で「何がしなければ!」という人が立ち上がり、富山県内でも同様の動きがあった。「ボランティアおばちゃん」として知られていた川渕さんの周りには年代、職種さまざまな人が集まり、ボランティア団体「東北AID(エイド)」が設立され、川渕さんはこの団体の代表に就任した。
企業や個人から提供品や義援金が届き、バザーやステージ演奏、講演、被災地の写真展などを開催するなど、東北AIDによって大規模なボランティア活動が展開されるようになった。川渕さんは「それまでは気の置けない仲間とマイペースにボランティアをしていたけれど、一気に大きなうねりができた感じ」と振り返る。
東日本大震災から1週間後、バスをチャーターして毛布や食べ物を積み、宮城県石巻市へ届けた。行程は週末の「0泊3日」。この「東北AID被災地支援バス」は2011年3月19日を第1便とし年内までに17回、2012年は9回、2013年は3回、2014年は4回、2015年と2016年は各2回、2017年、2018年、2021年は各1回運行した。石巻市のほか、南三陸町、女川町へも足を運んだ。川渕さんは「被災地の様子を自分の目で見よう」と声を掛け続け、のべ300人から400人が参加した。
川渕さんは「東北での活動から、被災直後は甘い食べ物飲み物が求められると知った」と話す。生活が落ち着くと必要なものは変化し、フリーマーケット、カフェ、追悼行事、落語・マジックの上演など、被災者のニーズにこたえて活動は充実していった。メンバーの発案で、いくつかの試みが生まれた。「買うボランティア」として被災地の特産品を販売する「三陸サポーターズ」という活動も。福島県から親子を招待する保養事業も実現し、富山県内の観光地を案内したこともある。
「東北AID被災地支援バス」は回を重ね、コロナ禍もあって便は減ったが、12年間で40回続いた。川渕さんは全ての便の運行に携わってきたが、2011年末に闘病中の夫の様態が悪化したため第17便にだけは乗車できず、39回にわたって被災地へ足を運んだ。
川渕さんが「41回をひと区切り」と考えた最も大きな理由は高齢化である。“番頭さん”と頼りにしていた中心メンバーの男性2人が病気になり、長距離移動は難しくなった。メンバーの半数は80代。「大震災で亡くなった方は今年で13回忌を迎える。ひと区切りつけよう」と決めた。
3月10日に出発する東北AID最終便には25人が参加する。初めて被災地に行く若者もいる。これまでの活動を映像で振り返りながら移動する。「東北AIDの活動をやり切ったと思える」と川渕さん。「のみの市」での東北の物産品の販売は今後も続け、縁をつないでいくつもりである。
トルコ大地震の被災地を訪問し、テントを贈ると約束
川渕さんは東日本大震災の被災地訪問に先立ち、2月15日から24日までトルコ・シリア大地震を受けてトルコ南部アンタキヤの難民キャンプを訪問している。
東北AID被災地支援バスの最終便に向けて準備を進めていたところ、トルコ・シリア大地震が起こり、富山県高岡市内で貿易業を営むシリア人男性から支援を求められた。この男性と、「アジア子どもの夢」の活動としてトルコ南部アンタキヤの難民キャンプにあめや薬、タオルなどを届けた。
「アンタキヤの建物の壊れ方を見て分かったのは、この地震は人災であるということ。耐震基準を満たしていない建物ばかりだったために、街全体がぺしゃんこになっていました。せっかく助かっても飢えや寒さで命を落とす人もいます。避難してきた被災者のためにテント100張りを贈ると約束してきました」
川渕さんが「約束したテントを買うお金を何とかして集めなくては」と思いながら帰ってくると、篤志家から高額の寄付があった。「動けば、ものもお金も集まってくる」というのが持論である。「当初の目標額にはまだ届かないが、必要なテントの7割程度の資金は集めた」と手応えを得ている。
東北AID被災地支援バスの最終便に向けて準備している間にトルコの地震が起こったことで、川渕さんは「被災地に呼ばれる限りは行かなければ」と思った。振り返れば、スリランカ支援はスリランカに住む知人から助けを求めるファックスが流れてきたからだった。ネパールやインドも、それまで縁のあった人や、知人の知人などから依頼を受けて被災地へ向かった。
いつでも、誰でも、どこでもボランティアはできる
川渕さんがボランティア活動をするエネルギーの根底にあるのは、「困った人がいたら助けることは当然」という思いである。小学1年生のときに母親が亡くなり、中学生のときに父が失踪した。しかし、母方の親戚は物心両面で生活を支えてくれたし、3人の兄は短大に行くための学費を出してくれた。「何があっても、周りの人が温かく接してくれたことで卑屈にならずに済んだ」と振り返る。
気心の知れた仲間が病気によって東日本大震災の被災地を支援する活動を離れざるを得ないことは無念だが、川渕さんは「これから先、たまにはマイカーで東北へ行きたい」と話す。
「一緒に活動してきた多くの人に感謝しています。一方で『呼ばれれば、1人でもどこへでも行く』という気持ちは、体が動く限り持ち続けていきたい。いつでも、誰でも、どこでもボランティアはできます。ボランティアをやっている人が偉いのではなく、本当は誰でもできるのです。私はたまたま、次から次へと呼ばれているだけ」
「面白い人生。80歳まで何ができるかと考えている」と話し、東北へ旅立つ。
※クレジットのない写真は筆者撮影