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元SMAPじゃない。森且行は、オートレーサーだ

楊順行スポーツライター
(提供:R_design/イメージマート)

「いいかげん、元アイドルという見方とか、キャーキャー騒ぐのはやめてくれよ……という気はすごくあります。いまの僕は、レーサー。ファンの女性がたくさん来てくれるのはいいんですけど、僕じゃなくオートレースの魅力を感じてほしいですね」

 森且行を取材したのは、1998年のことだ。97年のデビュー当初、元SMAPという話題は厳禁だったが、多少は緩和されていたから、正直な気持ちを聞いてみたのだ。

「(SMAPの)みんなには結局、うまく話せなかったし、引き留める人もいました。でも自分の人生は自分で決めたいし、そういう意志の固さをみんなわかってくれましたから、"自分の夢を追ったほうがいい"と気持ちよく送り出してくれましたよ」

 あれから22年。森はついにSGを初制覇した。それも、一番取りたかった日本選手権のタイトルで。

 子どものころ、父・秀男さんに連れられてオートレースをよく見た。エンジンの爆音、ガソリンやオイルのにおい、そしてなによりスピード感とスリルに夢中になった。オートレースと同じように、ハンドルの左右の高さを変え、空き缶をつぶしてレーサーが履くような鉄のスリッパをつくり、友人と「オートごっこ」で競走した。ただし自転車で、だ。高校に進むと、16歳の誕生日を待ちかねてバイクの中型免許を取った。バイク仲間と、オートレース場に足を運んだこともある。

競争率24倍をくぐり抜けて

 アイドル時代の96年、ひそかにオートレースの入所試験を受けた。合格者は、768人中100人。2次試験ではさらに32人に絞られたが、5月にSMAPを脱退した森は3次試験もパスした。そこから10カ月の養成所生活を終えれば、晴れてオートレースの選手である。だが……。

 25期の選手候補生として、養成所で迎えた8月25日。森は時速100キロで走行中に落車してフェンスに激突し、全治6カ月の重傷を負う。順調なら翌年4月に予定されていたデビューも、当然遅れることになった。

「訓練が始まって2カ月、だんだんスピードが上がってきた大事な時期でした。だから"やばい"と思ったし、同期の連中はどんどん先に進んでいくわけですから、正直焦りもありました。ただねぇ……1週間もしたら、"焦ったって早く治るわけじゃない。一生の仕事にするんだから、1カ月や2カ月の遅れなんか大したことないじゃないか"と思えるようになりました」

 当時23歳。若いだけにケガの回復は早く、10月中旬にはリハビリを開始し、12月上旬には養成所に戻った。同期生はすでに130キロを出しているのに、森は70キロで孤独な周回訓練。高速走行訓練を再開したのは、ケガをしてから161日ぶりの97年2月だった。

「久しぶりという恐怖感はなかったですね。早く乗りたいという気持ちが強かったから、びびりもしなかった。しかもリハビリの間、うまい選手のビデオなんかを繰り返し見たのがイメージトレーニングになったのか、けっこういいフォームで乗れたんです」

 3月末には同期の31人が卒業したが、ケガでの空白があった森は居残り。孤独な"補習"を受けるうちに、デビューした同期生が白星を挙げたから、無理やり封印していた焦りがまたぶり返しても不思議はない。だが5月29日、仲間から2カ月遅れでようやく養成所を卒業。卒業式でもらした「やっと出られる!」はホンネだっただろう。なにしろ走り込んだ距離はトラック6200周、ゆうに3000キロを超していたのだ。

 97年7月6日、川口オート第3レース。森はゴールまで一度も先頭を譲ることなく、デビュー戦で華麗な逃げ切り勝ちを決めた。単勝一番人気は、100円の元返し。総入場者数3万5506人、そのうち9000人の女性ファンは、通常の約9倍といわれた。その97年は、47戦して1着が18回と、単勝率では新人・新鋭中トップで、オートレース年間三賞の特別賞に輝いている。それから24年目にしての、SG初制覇。SMAPはすでに解散し、レーサーを「一生の仕事」にした森は46歳になっていた。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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