パリの新星パティスリー「PAGES BLANCHES」。白鳥のような優雅さの陰には誕生の秘話も。
今年2月、パリ8区に開店した日本人シェフによるパティスリーがすでに人気になっています。
お店の名前は「PAGES BLANCHES(パージュブランシュ)」。「白いページ」という意味です。
※素敵なお店の様子とお菓子の数々は、こちらの動画からもご覧いただけます。
「パージュ」という響きを聞いて、ピンときたグルメな方もいらっしゃるのではないでしょうか?
2014年、手島竜司シェフと、彼の奥様で優秀なパティシエでもある大石直子さんがパリ16区に開いてから1年半でミシュランの星を獲得したレストラン「PAGES(パージュ)」の姉妹店なのです。
手島シェフと直子さんは、ガストロノミーレストラン「パージュ」の隣にカジュアルレストラン「116(ソンセーズ)」を開き、こちらも大人気。さらにパリ近郊にアトリエを設け、ケータリングにも対応できる体制にしました。そして、4つ目のプロジェクトとしてこちらのパティスリーをオープンさせたというわけです。
こう聞けば、順風満帆のように思えますが、2022年2月の「パージュブランシュ」開店までの道のりは決して簡単ではありませんでした。
長年温めていた夢を実現するための物件探しがまず大変だったそうですが、ようやく現在の場所、メトロのVilliers(ヴィリエ)駅のすぐそばという物件を2019年秋に競売で獲得。2020年の春に工事開始、となったのですが、着手して1週間後にパリはコンフィヌモン(ロックダウン)になってしまいました。
コンフィヌモン中でも工事は継続できる決まりではあるのですが、コロナ禍という異常事態で極端に神経質になっていた住民の反対で中断を余儀なくされ、予定はどんどん遅れてゆきます。
フランスでは、コンフィヌモンで営業できなかった事業体に手厚い補助金が支給されましたが、新規事業は対象外。銀行融資の審査も同じ理由で最後尾に回されるという状況をなんとか耐え忍び、2022年2月、ようやく開店に漕ぎつけたという産みの苦しみがあったのです。
「PAGES BLANCHES(パージュブランシュ)」は、そんなストーリーを感じさせないほど清らかで優しい“気”に満ちたお店です。手島シェフと直子さんの厚い信頼を受けてこの店のシェフパティシエを任されたのは、やはり日本人女性の赤澤香里(あかざわ・かおり)さんです。
彼女自身、とても優秀なパティシエとしてパリの名店で活躍してきたキャリアをもつ直子さんは、香里さんのことをこう評します。
「香里ちゃんはまずセンスがとても良い。私が想像する以上のものをいつも作ってくれました。人を喜ばせたいという気持ちが溢れていて、サプライズが大好き。彼女とはすごく気が合います。仕事が綺麗で丁寧。そして根性がすごい。私も根性がある方だと思うのですが、香里ちゃんのはかなりのものです」
女優の黒木華さんを思わせる、いかにも楚々とした日本女性といった雰囲気の香里さんと「根性」という言葉の組み合わせはちょっと意外に感じます。けれども彼女の来歴を聞けば、なるほど、と納得してしまいます。
香里さんは香川県の出身。小学校2年、3年の時から自分でお菓子を作っていたと言います。図書室で手にするのはお菓子やパンの本、そして図工の本でした。
「とにかく何かを作るのが好きでした。幼稚園の頃『ハサミの使い方が上手だね』と先生に褒められて喜んでいました。そう言われたことを今でも覚えているくらいですから、褒められることってとても大事なのだと思います」
家族に食べてもらったり、友達の誕生日にはケーキを作って持っていったりしたという小学生の香里さん。
「いつも新聞の番組欄を見て、いちごのケーキとか書いてあると、テレビの前で、レシピを必死でメモしていました。ビデオとかそういうものがありませんでしたから」
中学の卒業文集に「お菓子のプロになる」と書いていた香里さんは、公立高校を卒業すると迷わず製菓専門学校に入り、卒業後は地元のケーキ屋さんで仕事をしました。そして24歳の時、ワーキングホリデーを利用してパリで経験を積むことにしました。
けれども、パリのパン屋さんで仕事を始めて2週間くらい経った時、同系列のアンジェの店のヘルプに行ってほしいと言われます。パリを1年かけて経験するつもりで、『地球の歩き方』の「パリとパリ近郊」版を携えて来た香里さん。「本に載っていないのですが、それ、どこですか?」と、通訳を介して尋ねたくらい土地勘のない場所でした。渡されたチケットを持って、2時間半ほど列車に揺られて行くと、現地の店の人が迎えに来ていました。
「当時の私は『ウイ』と『メルシー』くらいしか言えませんでした。『ここ、あなたの家』、『働く場所はここ』と案内された場所は、歩いて30分くらいかかる距離。仕事は朝5時半からスタートなので家を5時に出なくてはなりません。外は真っ暗で、街灯がポツポツあるくらいの田舎道でした」
言葉ができないので軽く扱われたり、ため息をつかれたり。とにかく仕事を淡々とするしかありませんでした。携帯電話を持っていなかった当時、テレフォンカード式の公衆電話から、実家や先輩に「辛い」と電話することもあったそうです。
1ヶ月のヘルプのつもりが4ヶ月経ち、1年いてほしいと言われた時、香里さんはさすがに「ノー」と言い、「私はパリで挑戦したい」という文章を辞書を引き引き作っていって納得してもらい、パリの店に戻ることになりました。
ところが、店が彼女に用意していたパリのアパルトマンに戻ると、そこにはなんとスリランカ人が住んでいたのです。香里さんの荷物は部屋の奥に追いやられ、そこが彼らのキッチンになっていました。その晩、香里さんはスリランカ人二人と、彼らが作った料理を食べながら、「あなたは誰ですか?」「どこで働いているの?」と、日本語からフランス語、フランス語からスリランカ語、そしてその逆を、互いの分厚い辞書を引きながら繰り返すという不思議な夜になりました。
翌日、荷物を整理しようとした香里さんは、(1ヶ月だけだから)と、あえてそこに置いて行った貴重品がなくなっていることに気づきます。誰が奪ったのか知る由もなく、被害を店に訴えても埒はあかず。
そこで香里さんは店を辞め、同時に家も失い、しばらくは友人知人の家を転々とすることになりました。
そんな時に出会ったのが、直子さんの手書きのアナウンスです。パリに暮らしたことのある日本人なら、おそらくみんなが頼りにしたことでしょう。パリの「ジュンク堂」や「ブックオフ」の店内には、自由に貼り紙できる一角があって、住まいや求人をはじめとするさまざまな情報源だったのです。
「シェフパティシエ募集。やる気のある方大歓迎」という貼り紙を見るや、香里さんはそこにある電話番号を取るのではなしに、ほとんど反射的に紙ごと剥がしました。(誰にもこの紙は渡せない)と。
それが2008年のこと。直子さんは当時パリ中心部にあった「Pomze(ポムズ)」というレストランのシェフパティシエをしていて、一緒に仕事ができる人を探していたのです。香里さんにとって、ほとんど運命的とも言える直子さんとの出会いでした。「ポムズ」で4年ほど一緒に働いた後、直子さんは手島シェフと独立。香里さんはシャンパーニュ地方のレストランへ。そして、「パージュ」のパティスリーを開くというプロジェクトで、再び直子さんと香里さんの軌跡が重なったのです。
ところで、意外に思われるかもしれませんが、私たちにとって馴染みぶかいイチゴのショートケーキをフランスで見かけることはまずありません。イチゴのケーキがあったとしても、ふわっふわのスポンジケーキとこれまた口溶けの良い生クリームという鉄板の組み合わせではないのです。
けれども、フランスと日本の良きものを熟知していている「パージュブランシュ」には、パリでは貴重なこのショートケーキがあります。しかも、いちごは16区のイエナのマルシェで、直子さんが懇意にしているお店から調達する旬の最上級品です。
「ショートケーキは私が一番作りたくないもので、しかも私が一番得意なもの」と香里さんは言います。
「日本で仕事をしていたお店で、私はもっぱらウエディングケーキやショートケーキの担当でした。ショートケーキしか作れないのがいやでショートケーキのないところ、自分の得意分野でないところを埋めようと思ってパリに来たのです。フランス人には食感がとても大事で、ミルフィーユのようにサクサクしたものや、スポンジ系でもアーモンドパウダーが入ったしっかりとした食感のものが良いはず。だから日本人のケーキがこんなにウケるとは思いもしませんでした」
「Fraisier japonais(フレジエジャポネ=日本のいちごケーキ)」という名前でショーケースに並ぶこのケーキ。香里さんが作るそれは、グルメなパリっ子たちのファンを着実に増やしていっている様子で、私がお邪魔していた間にも、グレーヘアーの今時のおしゃれな感じの男性が、ホールサイズのを2つ購入していたほどです。
また、京都の抹茶を使ったフランがこの店の一番人気になっているというのも予想外の展開。「こんな時代が来るとは想像もしませんでした」と、香里さん。
時代の波に乗るのではなく、この店が時代を作っていく。
苦難の時を糧にして、日々真摯に美味しいもの作り届け、人々を笑顔にしている「パージュブランシュ」。ここには、穏やかな、けれども弛むことのないパッションがあります。