孤立が“モンスター”をつくり出す
自分が存在するのかわからなかった
最近、通り魔的な犯罪が相次いでいるのを見ていて、思い出したのが映画『ジョーカー』だ。改めて、この映画を観直してみて感じたのは、それぞれの多発している事件と直接、重なるわけではないものの、「悪」ではなかった人が孤立によって「悪」に姿を変えていくというメッセージだ。
ちなみに、昨年10月末、京王線内で “ジョーカー”の仮装をして刺傷事件を起こした容疑者にはまったく共感できない。ただ、犯罪の中には、「善人」だったはずの弱者が周囲から追いつめられて“居場所”を失い、「ジョーカー」になっていくことも十分にあると思うし、そのような事例も知っている。
『ジョーカー』は、派遣ピエロで生活費を稼ぎながら年老いた母親の世話をしている男性アーサーが、お笑いが好きで勉強していたり、同じアパートのシングルマザーに恋していたりして、何とか世の中につながろうとしていたのに、ことごとく拒否されていくというストーリーだ。アーサーは、バスの中で子供をあやしていただけでも、隣にいた母親から「話しかけないで」と制止される。
人々の悪意に翻弄され、派遣の職場をクビになり、地下鉄で3人組から暴行を受け、反射的に射殺してしまう。
「狂っているのは僕か?それとも世間か?」
アーサーが話を唯一聞いてもらっていた市のカウンセリングで、そうカウンセラーに問いかけるシーンは、印象的だった。しかし、そのカウンセリングも全面的な予算カットで閉鎖されることを告げられて、こうアーサーは訴える。
「僕はずっと、自分が存在するのかわからなかった。でも僕は、ここにいる」
自分の“居場所”が次々に奪われて孤立していくうちに、自らの中にあった「悪」が「モンスター」に変わっていく。映画の話ではあるものの、アーサーが人の悪意や裏切りの連続で絶望が積み重なっていく中で、誰かに「大丈夫だよ」と寄り添ってもらえたら、また違った展開になっていたのかもしれない。
孤独・孤立2万人調査結果は今年度末に公表
筆者が長年「ひきこもり」に関わって来て、日々当事者たちに接してきて感じるのは、自分が社会から必要とされているのか?実感できなくなっている人が非常に多いということだ。
「できる」「できない」で選別され、ふるい落とされてきた人たちは、いったいどこへ行けばいいのか?行き場を失った人たちがこれから生きていくための枠を、今の社会は持っているのだろうか?と感じさせられる。
もちろん、すべての犯罪が防げるわけではない。しかし、人は「居場所」で救われる。大事なのは、いま普通に生活している人たちが犯罪者にならないように、孤立をなくしていく取り組みだ。
日本では2021年2月から、英国に次いで2番目となる「孤独・孤立対策担当大臣」が設置された。12月末には、全省庁の副大臣で構成する推進会議で重点計画を作成。新型コロナによって、社会に内在していた孤独・孤立の問題が顕在化し、深刻になっているとして、「支援を求める声を上げやすい社会」「切れ目ない相談支援につなげる」「見守り・交流の場や居場所づくり」「官・民・NPO等の連携」などの基本方針を打ち出した。
また、政府は孤独・孤立の実態を把握するため、21年12月から約2万人を対象にした無作為抽出の全国調査を実施。どのようなきっかけで孤独・孤立に至ったのかの要因や状況などを調査し、21年度末に結果を公表して、施策に反映させるという。
相次ぐ事件の背景には、コロナ禍の影響もある中で、周囲に相談できる人がなく、孤立を募らせていった状況も類推できる。真面目に生きている弱者には、とりわけ冷たく感じられる世間の空気が、どこかにあるのではないか。そんな世の中の状況が変わらない限り、また新たな「ジョーカー」が現れる。
でも、今ならまだ間に合うし、日本にはもっとできることはある。元々悪ではなかったような人がモンスター化した事件を解明し、犯行に至るまでに本人の中で何が起きていたのか、想像力を働かせることも、行政が手を差し伸べるために大事なのではないか。