楽天・梨田監督の辞任で考える「監督の責任」
楽天の梨田監督が辞任した。本拠地で負け続けたこと、この時期に借金が20にまで膨れ上がったことが理由と言う。このことで、監督に責任の本質について考えさせられた。
シーズン中の監督交代は珍しいことではない。ここ数年だけでも2016年に中日の谷繁監督が、2015年にオリックスの森脇監督が、2014年には西武の伊原監督が退任している。しかし、今回の楽天での交代劇はそれらと決定的な違いがある。それは「休養」と言う形式を取らず辞していることだ。
休養とは誠に日本的な人事措置だ。「休む」だけだからその時点では辞めた訳ではない。現場からは姿を消すが、サラリーは支払われると思われる。プロ野球の監督に在宅勤務や無尽蔵の有給休暇が契約上認められている訳ではないだろう。したがって、こんな形態がコンプライアンス上アリなのか?という疑問は拭えない。休養とは事実上の解任だが、首になるより休んでいるだけの方が名誉への傷が小さいという認識があるのだろう。責任の所在が極めてあいまいだ。それからすると、梨田監督のケースの方がストレートで分かりやすい。
しかし、彼は不振の責を問われるべきだったのだろうか?楽天の低迷は昨年夏以降続いている。オフにも特に有効な補強を行なっていない。今季はクローザーの松井やウィーラー、ペゲーロら主軸打者(彼らを「外国人」と括ってしまうのは差別的であり、適切な表現ではない)の不振が痛い。
してみると、今季の低迷の要因はいずれも監督の影響範囲を越えたところにあり、梨田監督の責任に帰するのは適切とは思えない。と言うことは、彼は「結果責任」を取ったと理解すべきなのだろう。しかし、結果責任を負わねばならないとすれば、それは前評判の高かったチームが低迷した時だろう。楽天には申し訳ないが、今季はそれなりに厳しい戦いを強いられると予想したファンや専門家は多かったはずだ。苦戦を予想された球団がやはりダメだった(もっとダメだった?)場合も指揮官が結果責任を問われるべきなのか?これはある意味ではすごく残念なことなのだけれど、戦力に劣る球団が監督の名采配で強豪に変身するということも、その逆もあり得ない。
また、球団も(どこまで真剣にだったかは分からないが)慰留したと言う。少なくとも休養という隠れ蓑を用いていないということは、球団主導の解任劇ではなかったと理解すべきだ。
ならば、梨田監督は辞める必要があったのだろうか。責任を云々するならそれこそ球団から解雇されるまで戦い抜く責任感を見せて欲しかった。もちろん負け続けることは精神的に辛いはずだ。眠れぬ夜も多かったと思う。梨田監督もそうだったようだが、敗戦後に監督に向かって「◯◯辞めろ!」と罵声を浴びせるファンも少なくない。
楽天の低迷の原因は戦力不足であり、主力の不調であり、運に左右されやすい野球というスポーツの持つ特性ゆえであることは、梨田監督自身がよく理解していたはずだ。さらに言えば球団も翻意を促した。ロジック的には辞めなければならない理由は特にない(たとえ、彼を取り巻くファンの多くはもっとエモーショナルであったとしても)。なのに、辞任以外の選択肢を持ち得なかったのは、「結果責任」というドグマから抜け出せぬほど彼はオールドスクールだったということか。