周囲の大人を魅了する25歳ホテル運営会社社長“お寺で過ごした高校生活”
各地のホテルへ日々取材をしていると、魅力的なホテルスタッフに出会うことが多い。“ホテルと人”といえば、目下人手不足が喫緊の課題として叫ばれており、悲観的なアプローチで記事を書くこともあるが、人手不足ゆえともいえるのか、個性溢れる人物が際立つホテルも気になる。
他方、ホテルと特定の個人(ホテルスタッフ)にフォーカスした記事を執筆することは基本的に避けてきた。取材を申し込めば承諾をいただける可能性はあるにしろ、特に若きスタッフという点を鑑みると、転職して他のホテルへ移りキャリアを積んでいくことも多い業界だけに、過去の一面を切り取った記事が後々まで残り続けることと、取材相手のその後の思いがうまく想像できないからでもある。
今回そうした意味からは特異なケースとなった。取材先・取材相手は訪日外国人旅行者の戻りも目下注目されている京都・嵐山のホテル、そしてそのホテルを手がける25歳の若きホテル運営会社社長である。
彼の名は山田澪(りょう)さん。いまのホテル運営会社社長という立場を考えると、決して恵まれてはいなかった境遇にあった彼は、若くしてホテル運営会社を立ち上げ成功を収めた。
その秘密は周囲の大人を魅了する、一度会ったら忘れられないキラキラしたオーラを纏っていることだと会った瞬間に直感。人にフォーカスしたイレギュラーなホテル記事ではあるが執筆することを決め、ホテルそのものへの取材と共に、会って30分後には彼自身への取材申し込みをしていた。
山田さんが運営するのは「ホテルリバーサイド嵐山」。エリアでは希有なペットホテルとしても知られ、コロナ禍から高稼働・高リピーター率を誇りファンのハートを掴む。客室はリニューアルなど施されているものの、ホテルの建物自体は決して新しくない。
そうなるとゲストのハートを掴むというのは、キメ細かな気遣いやサービスによるところが大きいのだろう。ホテル内のそんな気遣いは枚挙にいとまがないが、それこそ山田さんの人柄が随所にあらわれている。
まず、彼の経歴を聞いてみたが、中でも印象的だったのが高校だ。「比叡山高校」(滋賀県大津市)の出身という。比叡山高校とは「天台宗立の学校として創設され、その後もっぱら天台宗教師育成の機関として経営されてきたが、昭和22・23年学制の改革を契機に、世間の強い要請で門戸を広く開放し、伝統である宗教的雰囲気のうちに中学校・高等学校両課程において理想的人材教育を施すことになった。同年天台宗立から財団法人延暦寺学園に移管され、昭和26年学校法人延暦寺学園の経営となり、昭和28年に幼稚園を開設して今日に至る。」(公式サイトより)といういわゆる仏教系の学校である。
無論、実家がお寺という生徒もおり、地方から入学して寮生活をしていた者もいた。朝礼では般若心経を唱えるのだが、お寺の子供は既に暗唱しているといい、写経の授業でも彼らは実力を遺憾なく発揮した。さもすれば高校生にして独特の世界ではあるが山田さんには新鮮に映った。
大津市出身の山田さんは、両親共働きで父母は別居、母方の祖母に育てられた。私立高校である比叡山高校への進学は、地元の公立高校受験に失敗しての進学であり、当初は自宅から通学していた。受験の失敗での消去法的な進学で1年次は落ち込んで悶々とした高校生活のスタートだった。
そんな山田さんにとっての転機は2年生になってから。高校の真横にある「最乗院」髙川慈照(たかがわじしょう)住職のご子息髙川慈海(たかがわじかい)さんと仲良くなったことがきっかけだった。和尚さんの息子と親交を深めていったことで、慈海さんの家、すなわち最乗院へたびたび出掛けるようになった。山田さんの中で何か導かれるものを感じたのだろうか。
お父さんの髙川慈照さんは、伝教大師最澄上人の御廟所である比叡山浄土院にて十二年籠山行を満行されている。十二年籠山行というのが聞けば聞くほどその凄まじさに絶句する。12年間比叡山に山ごもりし、外界とまったく遮断された世界で厳しい修行をするもので、12年ものあいだ境内から外に出ることは許されないといい、新聞やテレビ、もちろんネットを見ることも当然に叶わない
そんな慈照さんのもとで、修行ではないが山田さんは寺の手伝いをするようになっていった。住職には小僧がいなかったため、力仕事の手伝いをはじめ、高校2年生にして山田さんの生活はすっかり寺時間に。
次第にお寺のことがわかってきたが、信心深い家庭で育ったわけではなかったところ“こんな世界もあるのか”と思いつつ、規則正しい生活で体調も良くなり完全に住み込むようになっていった。遊びたい盛りの高校時代だったろうが、自宅に戻るという選択肢は山田さんには無かった。
かような規則正しい生活という環境に巡り会い、慈海さんとの友情を育みつつ結果として多感な時期をお寺という時間軸で過ごすことになった。それは、いまの山田さんが発する言葉や仕草のひとつひとつにもあらわれていると、高校時代の話を聞いて納得した。
そんな天台宗のお寺で過ごした高校生活であったが、比叡山高校を卒業し関西外国語大学への進学を機に実家へ戻った。一方の慈海さんは仏教系の龍谷大学へ進学、自然と会う機会も減っていった。
大学卒業後、山田さんは外国語を生かせる仕事をと人材系のコンサルタント会社に就職した。まさにコロナ禍での入社であった。出社ができなくなり、在宅でリモート研修をこなす日々。時間だけはあったのでそのタイミングで慈海さんとの交流が戻ってくることに。
人材業界のダメージは大きく、2020年4月の入社から一度も出社することなく過ごしたが、自身の人生においてこれ以上ここにいることの意味を考え退職した。
実は、リモート勤務で時間の余っていた中、父親が不動産関連の仕事をしていたことから、その紹介でコロナ禍でクローズしていたマンション型民泊施設の掃除を手伝うようになっていた。まったくのボランティアであったが、山田さんは部活動はもともと体育会系だったこともあり、運動不足解消のためといった軽い気持ちではじめた手伝いだった。
するとなんと慈海さんも手伝ってくれるように。友情は尊い。リモート勤務の合間のボランティアとはいえ、これも高校時代の律せられた生活習慣なのだろうか、慈海さん共々とにかく隅々まで掃除しなくては気が済まない。空気清浄機からエアコンも少しずつ少しずつ2ヶ月かかって清掃するなど、ある種本気のホテル清掃ボランティアは4ヶ月に及び、計23室を“今日からでも営業できます”というくらいに完璧に整えた。
実際にホテルを訪れてそんな話を聞くと、部屋の数や規模なども含めて想像を絶する作業量だったことがうかがえる。山田さんにとっては偶然が重なり合ったコロナ禍ゆえの“ホテルとの出会い”だったわけである。
ところが、清掃ボランティアの最中に運営していた会社が営業もままならない中で倒産したのだ。運営者不在のまま掃除だけは終わった建物・・・マンションへ戻すがホテルとして営業をするかの分かれ道になっていた。
そんな時、物件のオーナーから「会社のスタッフとして入って君がホテルをやってみないか」と切り出される。山田さんはホテルについてまったくの素人だ。とはいえ、掃除にどっぷりハマりながら、ペットと泊まれるホテルなんて面白いよなぁなどとあれこれアイディアは閃いていた。
ホテルの内部も知らず未熟な社会経験しかない山田さんであったが、お客さんの気持ちにだけはなれる自信というか直感はあった。そんなキラキラした礼儀正しい山田さんに周囲の大人は協力を惜しまなかった。さらに改修をするための資金を調達するなどして2020年11月にオープンに漕ぎ着けた。
経営理論など勉強したこともない山田さんであったが、ペットホテルのアイディアで運営を任せられたホテルにして、驚くことにコロナ禍で赤字を出さずに運営を続けた。
そしてついに法人を設立、紆余曲折を経つつも運営を請け負う会社として独立した。現在15名のスタッフと共に若きゲスト目線をもってホテル運営に奔走している。
* * *
山田さんに大切にしていることを聞いてみた。「いまの時代は感情をぶつけるツールも溢れていますが…だからこそ感情をコントロールすること」という。SNSなどツールがあると直情的な言葉を発したくなるというのはよくわかる。
「きたない言葉を使えばきたない人になる うつくしいことを願えばうつくしい人になる」沖縄の言い伝えで聞いたことがある。山田さんの若くして穏やかな雰囲気にはそんな思いがあるのかもしれない。
でもそこには熱きパッションも見え隠れする。彼のオーラと実直な人柄に周囲の大人は魅了される・・・いったいどこに秘密があるのだろうか。
「自力を尽くして御仏にお任せすることで、そこへ大きな他力の救いが現れる。」
髙川慈照住職の言葉だ。
25歳の若きホテル運営会社社長にとって、高校時代のある種異質な時間はかけがえのない自分と向き合う時間でもあった。環境とはつくづく自らが招きまねくものなのだと彼と会っていると思う。取材を通してすっかり友達となった山田さん、彼のこれからを考えるとワクワクしてくる。