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対馬丸の闇と満州の光 生き抜いた少年の語り

高山義浩沖縄県立中部病院感染症内科・地域ケア科
北谷の海岸から(筆者撮影)

80年前の今日(1944年8月22日)のことです。

疎開船「対馬丸」が米潜水艦からの魚雷攻撃を受けて沈没しました。民間人や児童ら約1700名を乗せ、那覇から長崎へ向かう途中でした。記録によると、生還することができたのは児童、民間人90名、兵士13名、乗組員33名であったとあります。

その生き残りの児童であった男性について、私は在宅医として担当させていただき、5年前に自宅で看取らせていただいたことがありました。以下の文章は、この男性の語りをもとに書き起こしたもの。ご家族の了承のもとに紹介いたします。

◇   ◇   ◇

まず、3本の魚雷が船倉左舷に命中しました。さらに、別の魚雷1本が船倉右舷に命中しました。

船長は「総員退船」を令しましたが、船倉にいた1700人の児童や教員ら大人たちは、大きく揺れるなかでハシゴを登ることすらままならず、踏み外しては転落を繰り返していました。そして、魚雷命中のわずか11分後・・・、6754トンの貨物船は大爆発を起こして沈没しました。1944年8月22日の深夜のことでした。

そのとき、9歳の少年だった宜一(ヨシイチ)さんは、母親と一緒に甲板の最後尾から海を見下ろしていました。船倉に降りようと母親に何度か促されましたが、宜一さんは暑苦しい船倉がイヤで、そこから離れようとはしませんでした。海面を見下ろすと、スクリューに巻かれた水泡が星光に照らされ、やがて1本の筋となり、闇へと吸い込まれていきました。

激しい爆発音とともに母親と海へ投げ出され、もがいていると水面に浮かびあがりました。がっしりと母親が宜一さんの救命胴衣を握りしめていました。何とか浮かんだ木造物をみつけ、その縁にしがみつくことができたのは幸いでした。肩まで水につかったまま泳ぎつづけ、母親とともに最初の朝を迎えました。

暗闇の彼方で、ほんのりと青い光が放たれ、やがて空と海とを分かちました。すると、みるみる周囲の様子が分かるようになりました。つかまっていたのは、救命イカダ。15人ほどがしがみついていましたが、イカダは皆が登ると沈んでしまいます。船員が1人いて、公平のために誰も登らないように指示しました。

次いで、船員は児童たちに点呼をとりました。そして、定期的に軍歌を歌わせ、皆の気持ちを盛り立てようとしました。しかし、折しも台風が近づいており、大きな波とともに、力尽きた女子児童たちが流されていきました。

2度目の夜を迎えました。

暗闇のなか、ただ、宜一さんは必死にイカダの縁につかまっていました。船員が点呼をとるたびに、誰かが波にのまれたことを知りました。やがて船員は士気が下がると考えたのか、点呼をとるのをやめました。宜一さんは、何度か眠りに落ちましたが、母親が泳ぎ続けながら支えてくれていました。目を覚ますと、星空が無関心に瞬いていました。

2度目の朝を迎えました。

うって変わって波は穏やかになりましたが、今度は日差しが照り付けて、ジリジリと肌を焼きました。宜一さんは、沈没してから1滴の水すら口にしてはいませんでした。しかし、不思議と喉は渇きませんでした。イカダの縁に生えた海藻のように、ただ波に弄ばれながら漂っていました。

3度目の夜を迎えました。

小さな悲鳴とともに、さらに何人かが暗闇へと流されていきました。もはや、死は確実なものと思えました。宜一さんは、自分の順番をまっていました。しかし、一度たりとも、母親はあきらめの言葉を発したことはなかったそうです。そして、事実、海は、彼を引き込むことはありませんでした。8月25日の朝、漁船によって救助されたのです。

この対馬丸の悲劇によって1484名が死亡したと伝えられています。生き残った児童は、宜一さんを含め、わずかに59名だったということです。

それから75年の年月を経て・・・ 宜一さんは天寿をまっとうされました。最愛の妻に見守られて、自宅で息を引き取られたのです。連絡を受けて私が訪問すると、奥様は泣きはらしたあとのサッパリした顔で、「亡くなる15分前まで笑顔だったんですよ。苦しむことなんて、何にもありませんでした」と微笑まれました。

たしかに、宜一さんの死に顔は、いつものように親しみ深く、そして物静かでした。戦争を生き抜いた男は、平和なひとつの時代を見送るように、穏やかに息を引き取ったのです。きっと、彼岸で母親に再会していることでしょう。守り抜いた命が天寿をまっとうしたことを、きっと喜んでくれているに違いありません。

ただ・・・ これは、私による宜一さんの物語です。

沖縄のドキュメンタリー番組でも、彼が対馬丸の生き残りであるとして紹介されることがありました。ところが、宜一さんにとっては、自らが対馬丸の生き残りということより 、その後に父を頼って渡った満州こそが重大な出来事だったようでした。

しばしば、私は宜一さんから対馬丸の回想を聞き出そうとしました。上述の話は、そうしてお聞きすることができた物語です。とはいえ、実は、その試みはほとんど徒労に終わることが多かったのです。そもそも彼の記憶は不確かで、とりとめなく時間を行き来しながら、意識の辺境へと流されていきました。繰り返し聞き取り、そして記録を参照しながら再構成する必要がありました。

確かに彼は、私との会話を楽しんではいました。ただ、対馬丸の話は極めて断片的なまま終わり、むしろ、満州の巨大な駅舎、遥かなる鉄路、そして広大な平原の話が躍動的に語られたものです。暗闇のなか母親と海に投げ出された辛苦よりも、父親と再会して大陸を目撃した感動こそが、沖縄生まれの少年の記憶として鮮明に残されたのでしょう。

八十余年を生き抜いた男の人生など、絶対に私たちに分かりようがないのです。これがACP(アドバンス・ケア・プランニング)の本質なのでしょう。「高齢者の生き方に寄り添う」と言えば聞こえは良いですが、寄り添えるほど単純でないことを、聞けば聞くほど思い知らされるばかりです。

宜一さんもまた、周囲の反応を気に留めることなく、淡々と昔語りをされていました。私たちはただ、「はぁ~ 驚いたよ。満州は何もかもがでかかった」と嘆息する言葉において、彼の人生の深みを感じることができました。あとは私たちがどう記憶するか・・・ なのかもしれません。

もしかしたら、彼岸の向こうには、満州の大地が広がっているのではないか。そこで宜一さんは父親と再会し、希望に胸を躍らせているのではないか・・・。そんなふうに、あれこれ夢想させてくれるのです。たぶん、それで十分。

沖縄県立中部病院感染症内科・地域ケア科

地域医療から国際保健、臨床から行政まで、まとまりなく活動。行政では、厚生労働省においてパンデミック対策や地域医療構想の策定支援に従事してきたほか、現在は規制改革推進会議(内閣府)の専門委員として制度改革に取り組んでいる。臨床では、沖縄県立中部病院において感染症診療に従事。また、同院に地域ケア科を立ち上げ、主として急性期や終末期の在宅医療に取り組んでいる。著書に『アジアスケッチ 目撃される文明・宗教・民族』(白馬社、2001年)、『地域医療と暮らしのゆくえ 超高齢社会をともに生きる』(医学書院、2016年)、『高齢者の暮らしを守る 在宅・感染症診療』(日本医事新報社、2020年)など。

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