【九州三国志】兄に従い戦火を駆けた忠臣!高橋統増から立花直次へ、波乱の生涯
元亀3年(1572年)、高橋紹運の次男として生まれた高橋統増は、若くして父や兄・立花宗茂とともに大友氏に仕えたのです。
主君・大友義統から偏諱を受け「統増」と名乗り、やがて筑後高橋氏の嫡男となります。
天正14年(1586年)、島津氏の侵攻では父が岩屋城、統増が宝満山城を守ったが、紹運の壮絶な最期の後、統増は城兵の助命を条件に降伏します。
しかし島津側に条件を反故にされ捕らわれるという苦難を経験します。
その後、豊臣秀吉の九州平定で解放され、筑後国三池郡に1万8,000石を与えられました。
その後も統増は戦いに明け暮れます。
文禄の役では朝鮮半島に出兵し、碧蹄館や晋州城の戦いで武功を挙げ、軍事の才を示しました。
戦乱の時代の中、居城を江浦城から内山城へ移し、領内の治安維持にも努めたのです。
やがて、兄が立花宗茂と改名するのに合わせて自身も「宗一」、さらに「重種」と名乗りを改めました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伏見城や大津城で奮戦するが敗北し改易となります。
浪人生活を余儀なくされるが、徳川秀忠に召し抱えられ、やがて常陸国筑波郡柿岡で5,000石を得たのです。
これを機に「立花直次」と改名し、新たな家号を立花と定めました。
その後、大坂の陣で秀忠を救う戦功を挙げ、その名を再び高めたのです。
直次の死後、子・種次が三池藩を築き、子孫は藩祖の功績を称えるため顕彰碑を建立します。
さらに明治期には三笠神社が創建され、直次と父紹運の武勇が神として祀られることとなったのです。
困難を乗り越え、名家の礎を築いた直次の物語は、今なお語り継がれています。