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「生存権」を切り捨て続ける日本 実は「賃上げ」にも大きな悪影響

今野晴貴NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
(写真:イメージマート)

 インフレ情勢が継続する中、24日、今年の春闘がスタートした。先立って連合は「前年を上回る5%以上の賃上げを目安とする」との闘争方針を掲げ、それに対し経団連も「労使での交渉・議論に資する」と評価した。経団連はまた交渉指針として、構造的な賃上げのためには非正規雇用の処遇改善が欠かせないと言及した。

 インフレ情勢下で行われた昨年の春闘では、「30年ぶり高水準」「満額回答続出」などの景気の良い言葉が並んだが、実質賃金は最新のデータである昨年11月まで20ヶ月連続マイナスを記録しており、労働者の実際の生活は悪化していると言っていい。

 また、非正規雇用の賃金を実質的に規制している最低賃金は昨年10月に引き上げられ、全国加重平均で1004円となった。金額、上昇率ともに過去最大であったが、翌月の実質賃金もマイナスだったわけである。

 他方、同じくナショナルミニマムを規定する生活保護基準は、2023年度から75歳以上の高齢者世帯を中心に生活扶助(生活費)部分の引き下げが見込まれていたが、インフレを踏まえて見送りとなった。とはいえ、あくまで額面が維持されているだけであるため、インフレの中で社会福祉の「保護基準」も実質的に低下していることになる。

 生活保護基準は、憲法25条で保障された「健康で文化的な最低限度の生活」と実質的に同義であるから、事実上「生存権の切り下げ」が進行しているともいえるだろう。

 実は、生活保護基準は、労働者の最低賃金やその他多くの社会保障制度と連動しており、生活保護基準の実質的な切り下げは、今後多くの社会保障制度の実質的な切り下げにもつながってくる。中でも、最低賃金と生活保護はその連動が近年、意図的に強化されてきている。そのため、最低賃金の実質的な切り下げは、今後の賃上げの「沈め石」のように機能していく可能性が高い。

 本記事では、生活保護の実情を見たうえで、今後、賃上げに与える悪影響について考えていく。

生活保護基準はどのように決まるのか

 そもそも、生活保護基準はどのようにして決まっているのだろうか。

 まず、基準策定の手続き面から言えば、基準策定の権限は厚労大臣にある。そのため、厚労大臣と厚労省の官僚が有識者を集めた委員会の意見を聴取しながら行政的に決定しており、国会で議論しているわけではない。決定過程の不透明さが批判され、2003年以降の審議会(現在は「社会保障審議会生活保護基準部会」)では誰でも傍聴可能となっている。

 次に、生活保護基準の中身の算定方式である。生活保護法は憲法25条の生存権規定に基づき、「最低限度の生活を保障する」(第1条)ことを目的としている。「最低限度の生活」を具体的には「最低生活費」として金銭換算し、最低生活費は8つの扶助から構成されている。生活扶助、住宅扶助、教育扶助、医療扶助、介護扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助である。

 このうち、多くの受給者が対象となり、最低賃金との比較に用いられているのが生活扶助と住宅扶助である。つまり、生活費と家賃である。とりわけ、この間引き下げの対象になることが多いのが、生活扶助である。

なぜ、生活保護基準は下がり続けているのか?

 保護基準の算定方式は、法制定直後には必要な生活用品やサービスの量を一つひとつ積み上げていく「マーケット・バスケット方式」を用いていたが、現在は「水準均衡方式」が採用されている。その経緯を簡単に説明しよう。

 戦後直後には「マーケット・バスケット方式」で保護基準が算定されていたが、高度成長を経て一般世帯の消費水準が向上する一方、被保護者世帯は低水準で取り残され、格差が拡大していった。なぜなら、マーケット・バスケット方式による生活扶助基準(生活費)は、子育てや労働に従事しない無業状態の栄養基準を根拠としており、「日常生活の起居動作」を保障するだけだからである。

 格差縮小のための対応として、1961年には「エンゲル方式」が採用された。こちらも、マーケット・バスケット方式と同様に、標準的栄養所要量を満たす飲食物費を理論計算した上で、低所得者の家計調査から同様の支出の世帯のエンゲル係数で割り戻して生活費を算定するというものである。

 さらに、1964年には、一般世帯の消費水準の伸び率以上に保護基準を引き上げる「格差縮小方式」を採用し、格差を縮小しようとした。その結果、保護基準が「一般国民の消費実態との均衡上ほぼ妥当な水準に達した」として、1985年以降は被保護世帯と一般世帯とのバランスを維持・調整する「水準均衡方式」となっている。

 現在の「水準均衡方式」では、具体的には全国家計構造調査における年収階級第1・十分位(=所得下位10%層)との比較検証を行なっている。この比較の下では、高度成長期のように消費水準が全体的に右肩上がりでれば保護基準も上がり続けることになり、まさに「水準均衡」となる。だが、現在のように下層世帯の世帯年収が減少を続け、貧困が拡大している状況では、下がり続けるしかない

 しかも、生活保護の捕捉率(受給資格を満たす者のうち実際に受給している者の割合)は2割程度と言われており、年収階級第1・十分位という比較対象には、生活保護以下の生活をしている非保護世帯が膨大にいると見られる。要は、「生きていけるはずがない(貯金などを切り崩している)所得層」と比較して水準を決めているということだ。そのため、審議会においても「絶対的な水準(生存するための水準)を割ってしまう懸念がある」と指摘されている。

 もはや、現行の生活保護基準の決定方法が憲法に基づく生存権を保障できるものなのか、疑義が呈されているという事態なのである。

生活保護基準引き下げ

 実際、生活保護基準は2013年から引き下がり続けている。2013年8月には平均6.5%、最大で10%の大幅な引下げ率であった。このときの引下げについては、水準均衡方式の問題であるとともに、当時の「デフレ調整」が問題視されている。

 国際基準とは異なり物価下落率が大きくなる計算方法を用いていたり、パソコンやテレビの物価下落が大きいために一般世帯の消費支出は減少しているが、生活保護世帯は購入率が低く消費支出は減っていないこと、などである。

 こうした不当な引き下げに対し、全国29都道府県で1000人以上の原告が国を相手に訴訟を提起し、すでに、13地裁、1高裁で生活保護受給者の原告が勝訴している状況だ。

参考:いのちのとりで裁判全国アクション

 しかも、現在はインフレ情勢であり、引き下げをやめるだけでなく、引き上げなければ生活保護受給者の生存はますます危うくなる。しかし、インフレの進行にもかかわらず、2023年度からは75歳以上の高齢者を中心に引き下げが検討されていたのである。というのも、審議会は5年に1回しか開催されず、2021年からの審議会で参照されていたのはインフレ前の2019年の全国家計構造調査だったのだ。インフレを考慮して2年据え置きとなったが、2年後にはやはり引き下げられる可能性が残っている。

 現行の保護基準では生活ができないという声が私たちを含めた支援団体に多く寄せられている。「1日1食しか取れない」「猛暑でもエアコンをつけられない」「急な出費があると家賃や公共料金も払えない」。生存権が底を抜けている状況がある。

生活保護と最低賃金の「逆転現象」の解消

 2013年に自民党政権が強引に生活保護基準引き下げを行なった背景には、最低賃金と生活保護基準の「逆転現象」があった。自民党は当時の民主党政権下で「生活保護給付水準の10%引き下げ」を政権公約に掲げており、その理由を以下のように述べている。

東京都の生活保護費は、標準3人世帯で約24万円(月額)となっています。他方、最低賃金で働いた場合の月収は約13万円ほどであり、国民年金は満額で65,541円というのが実情です。こうした勤労者の賃金水準や年金とのバランスに配慮して,生活保護給付水準を10%引き下げます(自由民主党広報本部「The Jimin NEWS H24.4.16」No.160)。

 これに先立って、2007年の最低賃金法改正により、「労働者の生計費の算定に当たって生活保護施策との整合性に配慮する」が新設されていた。この「整合性」の中身が、「最低賃金は生活保護を下回らない水準となるよう配慮すべき」というものである。2013年以後に、政府はこれを全面的に推進した形だ。

 確かに、日本の低すぎる最低賃金が、「生活保護はずるい」という怨嗟の気持ちを日本の下層労働者たちに持たせてきたことは事実である。しかし、それは本来最低賃金を引き上げて解決すべき問題のはずであった。実際には生活保護が引き下げられた上に、最低賃金の方も、以前よりも上昇のペースが上がっていき、2014年10月の最低賃金引き上げにより「逆転現象」は解消された。

 その結果起こったのは、下のような図式による「逆転現象」の解消であった。

従来: 最低賃金 < 生活保護
  ↓       ↓
現在: 生活保護ー⊿ < 最低賃金+⊿

 そして、今や最低賃金と生活保護の月額ではどの都道府県でも2万円程度の開きができている。例えば、2022年度の東京都の最低賃金による月収は15万2032円に対し、生活保護費は12万2706円と、その差が3万円弱となっている。

 それにともなって、対立の構図も下記のように変化している。2014年までは生活保護と最低賃金の「逆転現象」のために社会的対立構造が激化し、「生活保護バッシング」が吹き荒れるとともに、生活保護を受けることが非常に難しくなった。一方、今日では「逆転現象」は解消しているが、今度は生活保護を受給しても生きていくことができないという問題が発生している。

拙著『生活保護 知られざる恐怖の現場』(ちくま新書)より。
拙著『生活保護 知られざる恐怖の現場』(ちくま新書)より。

筆者作成。
筆者作成。

 生活保護では生きていくことができないという状況は、労働市場に大きな影響をあたえるだろう。以前にもまして生活保護は忌避されるようになり、低賃金の労働市場への参入圧力が高まる。結果、賃金の下降圧力を強化すると考えられる。

 日本ではあまり意識されていないが、雇用保険や生活保護の給付期間・水準は、労働市場の競争構造を直接的に規定するために、これらが切り下げられていけば、必然的に賃金の下降圧力となる。上の図において示したように、日本では、雇用保険、生活保護のどちらも2割程度の捕捉率にとどまっており、事実上社会政策として機能不全を引き起こしている

 端的に言えば、どれだけ劣悪な仕事でも働かざるを得ない環境にある。それが、生活できるだけの賃金水準にない非正規雇用(半失業)を増大させた要因であることが、労働経済学者らによって長らく指摘されてきた。

 日本社会で「賃金が海外のように上がらない」、「生産性・技能が向上しない」理由とは、社会政策学的に考えれば、このような雇用保険と生活保護制度の欠陥に他ならないのである。したがって、生活保護の給付水準が実質的に下がるということは、これまで日本の低賃金の構造を拡大していくということと同義である。

 さらに、生活保護基準と最低賃金の間の均衡を政策的に図っていく際に、両者を連動するように法律を改正させている以上、生活保護を引き下げていくのであれば、それに伴って最低賃金の引上げが抑制される、あるいは逆に「下げる」ということにもなりかねない。

生活保護基準を上昇させるべき理由

 以上を踏まえ、生活保護基準を引き上げるべき理由を整理していこう。

 第一に、現在の生活保護では生存権の水準を割ってしまっている。これは憲法25条が保障する生存権を侵害するものである。

 第二に、生活保護の引き下げは最低賃金との均衡によって引き下げられたのだから、最低賃金の引き上げに連動して、こちらも引き上げなければ政策論としてちぐはぐである。

 第三に、労働市場の競争関係を緩和し、賃金の引き上げを進めるためにも、生活保護の水準を高めなければならない。

 個別の政策はばらばらに議論されがちであるが、現在社会的な急務となっているはずの賃上げと、生活保護基準が直截的な関係にあることをぜひ社会に理解してほしい。

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NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

NPO法人「POSSE」代表。年間5000件以上の労働・生活相談に関わり、労働・福祉政策について研究・提言している。近著に『賃労働の系譜学 フォーディズムからデジタル封建制へ』(青土社)。その他に『ストライキ2.0』(集英社新書)、『ブラック企業』(文春新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)、『生活保護』(ちくま新書)など多数。流行語大賞トップ10(「ブラック企業」)、大佛次郎論壇賞、日本労働社会学会奨励賞などを受賞。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門社会調査士。

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