真木ひでと 3つの時代を駆け抜け、ジャンルを変え、50年以上歌い続ける稀代のシンガーの現在地
GSからポップス、演歌、邦・洋楽のカバーまで111曲が収録された、シンガー・真木ひでとの集大成的作品
4月28日に放送され話題になった『マツコの知らない世界 平成生まれが熱狂!昭和ポップスの世界』(TBS系)は、昭和ポップスが今若者の間で密かにブームになっている…と紹介されていた。確かに、新宿にある「ディスクユニオン昭和歌謡館」を訪れた際も、老人、中年に混じって、若い人の姿も目立っていた。同番組では70~80代の名曲が紹介されていたが、その“源流”ともいえるグループサウンズ(GS)も今再評価され、再び注目を集めている。60年代後半に日本のポップスシーンに一大ブームを巻き起こしたGS。ブームの後そのメンバーは、新たなグループを組んだり、ソロデビューしたり、俳優やタレント、作曲家や音楽プロデューサーとして芸能界、音楽シーンで活躍した。
その中で、16歳で歌いはじめ、17歳の時にオックスのリードボーカリストとしてデビュー以来、50年以上歌い続けているのが真木ひでとだ。1950年生まれの真木は今年70歳を迎える。それを記念して、キャリアを総括する5枚組CD-BOX『陶酔・心酔・ひでと節!』が、オックスのデビュー日でもある5月5日にリリースされた。オックス解散後はポップスシンガーとしてソロデビューし、その後演歌歌手に転向。昭和の歌謡界で活躍し、昭和~平成~令和と3つの時代を駆け抜け、歌い続けてきた真木にインタビュー。絶頂とどん底を味わいながらも、歌うことを決してやめなかったその歌手人生から見えてくるものとは――。
オックス時代は“GS三大アイドル”として、GSブームの後期を盛り上げる
オックスはGSブーム後期、1968年5月シングル「ガール・フレンド」(作詞:橋本淳 作曲:筒美京平)でデビューした。真木は当時は野口ヒデトと名乗り、その甘くハスキーで色気のあるボーカル、激しいアクションで沢田研二、萩原健一と共に“GS三大アイドル”といわれた。オックスのライヴは、楽器を壊したり、客席に飛び込んだり、メンバーもファンも失神するというエキセントリックなステージで、いい意味でも悪い意味も大きな注目を集め、社会現象になった。しかしなんといっても最大の魅力は真木のその声だろう。前述したように甘くハスキーで色気がある、でもどこか影を感じる“生々しい”声は、歌をよりドラマティックにする。
「オックスとしてデビューするまで、自分の声を録って聴いたことがなくて。『ガール・フレンド』をレコーディングした時に『こんな声なんだ』って初めてわかって、当時『下手くそだ』って言われていましたが、でも『上手いじゃん』っ思いました(笑)。『ガール・フレンド』はうまいというより、独特の色合いがあると思うし、元々自分のキーはBマイナーなのに、低いAマイナーで歌っていて、低い部分がかすれている感じで、それが逆に甘くてハスキーって言われて」。
デビュー前はローリングストーンズやビートルズ、モンキーズ、アニマルズ、トログッスなどの洋楽のカバーをよく歌っていた。ローリングストーンズの「テル・ミー」のカバーは、オックスの“失神ソング”として有名で、『陶酔・心酔・ひでと節!』にもその貴重なライヴ音源が収録されている。しかし本人は「青春歌謡が大好きで、西郷輝彦さんに憧れて歌手になろうと思ったので、ロックを歌い始めたのはこの世界に入ってからでした」と語っている。
オックス解散後はソロデビューするも苦戦し、引退を考えるが…
オックスは「ガール・フレンド」に続いて「ダンシング・セブンティーン」「スワンの涙」「僕は燃えてる」と立て続けに大ヒットを飛ばし、一躍時代の寵児になった。しかしシングル9作、アルバム2枚をリリースし、71年5月解散。GSブームも終焉を迎える。そして同年8月、ポップスシンガー・野口ヒデトとしてシングル「仮面」でソロデビューするも、大きなヒットに恵まれずに苦戦し、75年、7年間在籍したホリプロを退社する。「74年頃からスケジュール帳が真っ白になって、毎月お給料だけもらいに行くみたいな感じで、ぬるま湯に浸かっているようで嫌でした。それで歌手を辞めようかって考え始めて、親の面倒も見ていたにもかかわらず、なんのあてもなく辞めてしまいました。でもプロの歌手としてヒット曲を出していくという夢を胸にデビューしたのに、志半ばであきらめるも悔しいし、考えた末に死ぬほど出るのが嫌だった『全日本歌謡選手権』に出ることを決めました」。
「歌手人生マイナス10からの再挑戦で、『全日本歌謡選手権』で10週勝ち抜いて、ゼロからの出発」
五木ひろしや八代亜紀らを輩出した人気オーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場し、見事10週勝ち抜き、“第38代チャンピオン”として、演歌歌手に転向を果たした。「あれがなかったら今の僕はあり得ない、50年以上歌うこともできなかった。オックスの3年間で終わって、後年GSがまたブームになって、オックスのヒット曲だけを歌う懐メロ歌手で終わっていたかもしれない。今回の111曲入りのCDボックスなんて出すこともできなかったし、あの番組は本当に大転換点でした。怖がらないで、なんでもチャレンジしなければいけないという、生涯の教訓をあの番組が教えてくれました」。
同番組の審査員でもあった作詞家・山口洋子は「これからの時代の演歌を歌える歌手にやっとめぐり逢えたような気がする」と、その才能を絶賛。同じ山口が手がけた五木ひろしの「木」を冠した、真木ひでとに生まれ変わり、75年シングル「夢よもういちど」(作詞:山口洋子 作曲:浜圭介)で演歌歌手として新たなスタートを切った。レコード会社は、ロックスピリットを持つ真木が歌う演歌を、“炎歌”と名付け、売り出した。GSで黄色い声援を浴び、一時代を創った真木が、演歌歌手になるという選択に全く迷いはなかったのだろうか。
「あの番組に出ると決めた時から、全く迷いがないし、だから本名で出ました。いってみればマイナス10からの再挑戦で、10周勝ち抜くことができたからゼロからの出発で、もう一回自分の人生が開けていくという感覚でした。審査員の先生方も僕が演歌を歌うことにびっくりしていて、僕も10週勝ち抜けると思っていませんでした。5周目に、オックスの作品を作ってくれていた橋本淳先生が審査員として出演して、その時『オックスの時の方がうまかった。君が歌っている演歌には情景描写がない』って言われました。後年聞いたら、あれは愛の鞭だったとおっしゃってくれださいました(笑)」。
それぞれの時代のヒットメーカー達が、真木作品を作り上げる
真木がシンガーとして恵まれていると思うのは、それぞれの時代で、最高のメロディメーカー、ヒットメーカーが作り上げた楽曲を歌ってきたことだ。オックスの作品は主に橋本淳×筒美京平コンビが手がけ、野口ヒデト時代はそこになかにし礼や森田公一等も名を連ね、真木ひでとの演歌は作詞は山口洋子、石坂まさを、作曲は浜圭介、猪俣公章、平尾昌晃、柳ジョージ、杉本真人等、編曲には竜崎孝二、若草恵等、まさに日本のポップス、歌謡曲、演歌シーンを作り上げてきた、錚々たる顔ぶれの作家陣の名前が並んでいる。それだけ真木ひでとという歌手の実力が際立っていたということだし、その唯一無二の声から生まれる世界観を、作家達も楽しみに作っていたに違いない。
「歌はうまく歌わなくていい。言葉をきちんと伝えることが大切」
今年70歳を迎える真木は、真木ひでとに改名して45年という記念すべき年でもある。これまで様々なジャンルの歌を歌ってきた真木の集大成とでもいうべきオールタイムベスト『陶酔・心酔・ひでと節!』には、オックス時代の「スワンの涙」や貴重なライヴ音源、ソロ時代のヒット曲「雨の東京」などに新曲2曲を加え、GSからポップス、演歌、邦・洋楽のカバーまで111曲が収録されている。オリジナルはもちろん、カバー曲を聴くと真木の独特の声質、表現力がより伝わってくる。
「16歳で歌い始めた少年があっという間に70歳ですよ。今回取材を受けた中で、何人かの人に『真木さんって演歌うまいんですね』って言われて(笑)、僕が演歌を歌っていることを知らない人もいて、今回のCD-BOXで是非真木ひでとの全貌を知って欲しい。通して聴いてもらえると、声の変遷もわかるし、歌い方が変わってきているのもわかってもらえるはずです。オックス時代の絶叫型から、優しい歌い方ができるようになり、今は歌をうまく歌おうと思っていないんです。反対にうまく歌わなくていいと思っています。詞をきちんと“伝える”ことが大切。今もキーを変えないで歌うことができていますし、僕のステージはオックスの曲も歌うので、派手なパフォーマンスを見せて、メリハリをつけることを大切にしています。観にきてくださった方に『ひでとはこの年歳になっても若いね』って言われるようなステージをやりたい。今思い返せばあれもやっておけばよかった、これもやっておけばよかったと思うこともありますが、まだ夢は終わってないって素直に思えるし、向上心を持っているので、まだまだ続けていけると思います」。