【ジャズ生】AQUAPITが刻んだ水面の輪は次なる流れを生む“予感”をはらんでいた
日本のクラブジャズ・シーンは、アメリカのシーンを牽引していたようなアーティストやバンド主導型とは異なり、DJのようなコーディネーションに才能を発揮するキーパーソンを軸としたプロジェクト・スタイルが多かったような印象がある。1990年代のことだ。
そうしたなかで1997年に結成されたAQUAPIT(アクアピット)が、20年目にして4作目のオリジナル・アルバムを制作して、その新作お披露目のライヴを開催するという出来事は、すでに“伝説”と呼んでいいことかもしれない。
オルガンと総称されるキーボードを軸としたサウンドを展開するユニットは世界的にも珍しくはないが、独自性を確立するそれは多くない。
敢えて言えば、フォロワーを狙うのであれば“美味しくない”マーケットなのだ。
そこにわざわざ打って出ようとしたのだから、AQUAPITあるいは金子雄太は“小賢しくない”といわざるえない。
いや、“小賢しい”のはプロとして必要な素質かもしれないから、金子雄太の振る舞いはその意味で“反逆”と呼ぶにふさわしいものである。
ジャズは常に“反逆”によって更新されてきたと言っていいだろう。
であるならば、AQUAPITの存在は、ジャズにあるべき、“必然”と呼べるものということになる。
では、なにがAQUAPITをしてジャズの必然たらしめたのか?
オルガンという名の必然的反逆とは?
まずは、ハモンドオルガンという、アコースティックと呼ぶにははみ出しすぎている機能と音色を備えた楽器の影響があることを考えなければならない。
一般に楽器は、唯一無二のサウンドをめざすべきとされる。いろいろでなくても許されたから、オーケストラという個性の調和が生まれたとも言えるだろう。
しかしオルガンは、1台で個性の調和、すなわちサウンドのバリエーションが許される唯一の楽器として存在することになった。
こうした多様性が、1990年代のストレートアヘッドと呼ばれるビバップを重視するジャズにの対立軸として脚光を浴びたクラブジャズの核をなすものになったのは、ある意味で必然と言えるものだったのかもしれない。
サウンドの多様性という指向は、ジャムという流動性と非固定化を求める原動力になる。
AQUAPITもまた、メンバーの個性による固定化を嫌って活動を停止させたと思われる時期があったり、ジャム・バンドのムーヴメントにあえて背を向けた印象があったりと、常に流動性を失わないように心がけているフシがあるように感じる。
4作目の制作にあたってバンドの2/3を入れ替えるという、大幅なメンバー・チェンジを敢行したのも、そうした現われのひとつに思えてしまう。
吉田サトシは2001年のギブソン・ジャズ、ギター・コンテストの最優秀賞受賞者。ニューヨークでの修行を経て2011年にファースト・アルバムをリリースし、ポップス側からのオファーも多い次世代組をリードする存在。
横山和明は、高校時代からジュニア・マンスや渡辺貞夫との共演歴をもつ早熟のドラマーで、高校卒業後に東京へ拠点を移すと、2004年からはバリー・ハリスの来日時のツアー・メンバーを続けたほか、数々のレジェンドたちのサポート歴を有する有望株だ。
前作までの小沼ようすけと大槻"kalta"英宣によるトリオはほぼ同年代だったわけだけれど、今回はひと回りほど若い2人にチェンジ。
その“音楽的ギャップ”が新たな推進力となっていることを確かめることができたステージでもあった。
そんな“ギャップ”をあえてクローズアップしながら、新たに3人の感性としてジャミングさせたのが、セカンド・セットの「やつらの足音のバラード」のカヴァー・ヴァージョン。
テーマを感じさせないように工夫した前半から、一気に泣きのテーマが前面に出てくる後半の切り替えは見事だった。
新作『ダンス・ウィズ・アンシェンツ』はタイトルどおりのダンサブルなナンバーをそろえたという新生AQUAPIT。そのお披露目を兼ねたステージは、したたかに脱皮を果たした彼らのこれからに期待を高めさせるに足る熱いものだった。