樋口尚文の千夜千本 第83夜「貌斬り KAOKIRI』(細野辰興監督)
アングラとアートを蹴飛ばす恋と笑いの熱血篇
この映画『貌斬り KAOKIRI〜戯曲「スタニスラフスキー探偵団」より〜』については、それこそスタッフ、キャストと一緒に誰よりも早く初号試写を見たのがもう1年半近くも前のことなのだが、当時を思い出すと細野辰興ほどの商業作品の手練れがこういうインディーズ作品に手をそめる、ということに大いなる心配を抱いていた。ようやくこのたび公開の機が訪れたので、再見してその初見の頃のことを思い出してみた。
そもそも細野監督は、メジャー映画会社が独自に監督を養成しなくなった時代に、今村プロダクションからディレクターズ・カンパニーへと渡り歩いて助監督修練を積み、今村昌平から相米慎二に至る名匠、鬼才の現場を経験した、いわば撮影所映画の残り香を継承する最後の人材なのである。その出自にふさわしく、『爆走トラッカー伝説』も『大阪極道戦争 しのいだれ』も『犯人に願いを』も『竜二 Foever』も『燃ゆるとき』も、ある意味クラシックともいえるドラマの骨格のなかでの据わった演出に妙味があった。その毅然としたオーソドキシーに、『シャブ極道』のように破天荒な題材が用意されると、絶妙な掛け算となって弾ける傑作が生まれた。近作の『私の叔父さん』も、こぢんまりとした愛の物語ながら、細部の俳優たちのエモーションの表現がきめ細かく、娯楽映画の滋味のようなものを感じた。
この細野監督がある規模感を伴う撮影所の映画から遠ざかっていることは、日本映画の大いなる損失のひとつとさえ思う次第だが、そんなある日、細野監督から「今度は樋口さんのやったような形で映画を作ってみようかと思います」というメールが届いた。それは破格の制作~公開スタイルで話題になったインディーズ映画のことであったが、確かに細野監督は劇場のバックヤードまで足を運んでくださってこの試みを刺激的に受け取ってくださった。敬愛する細野監督が、自分の拙い思いつきを面白がってくださって、新たな一本の細野作品が生まれるヒントになったとあれば、本来なら無条件に光栄なことと寿ぐべきことであろう。しかし私としてはそんなゲリラなやり方に訴えるしか制作~公開の方法がないから不可避的にそっちを選んだに過ぎず、そんなアングラさは、細野作品のあの往年の五社の小屋でかかっていそうなシャシンのオーソドキシーの対極にあるものである。
いとしの細野演出に、全くアングラは似合わないし、その種のサブカル的な現在性というのか、アクチュアルさやファッショナブルさとも縁遠い。そしてそれはそのまま細野作品の美徳につながるのである。『私の叔父さん』の初日の劇場に出かけてスクリーンを仰いでいる時、これは本当に現在の新作映画なのであろうかと思いつつ、その人物たちの感情表現の確かさ、きめ細かさに、『関の彌太っぺ』の山下耕作が21世紀に降臨したような錯覚を覚えたのだった。そんな細野監督が、なかなかこれという商業作に恵まれない状況を打破すべく、プロデューサー兼務でこしらえた新作が『貌斬り KAOKIRI〜戯曲「スタニスラフスキー探偵団」より〜』なのである。
くだんの初号試写に駆けつけてはみたものの、これはなんでも演劇が素材のメタ映画だというが、奇異なる前衛映画でありながら最先端風俗映画でもあった『新宿泥棒日記』のようなことを目指していたら絶対に見ていられないだろうと心配した。細野作品に前衛も似合わないし、今どき誰も話題にしない長谷川一夫の顔斬り事件を題材にしている時点で最先端風俗には全く無頓着と言っていいだろう。大島渚にせよ日活ロマンポルノにせよ、なにか実際の犯罪を題材とする際は、こういうアルケオロジーではなくもっと旬の(!)ジャーナリスティックな事件を持ってきただろう。だが細野辰興は、あくまで「別海から来た女」ではなく「上海から来た女」を描くひとである。・・・と、2時間半に及ぶ『貌斬り KAOKIRI〜戯曲「スタニスラフスキー探偵団」より〜』はさまざまな不安の香りを満載しつつも、断固として虚構のテンション高き細野映画(いつものような!)であって、すべては杞憂であった。
とにかく「実際の演劇の舞台にまつわるメタ映画」というふれこみが心配のタネであったのだが、これはいわゆるメタ映画というものではないだろう。なぜならば、ここではステージとそれをモニターごしに注視する楽屋において、それぞれを往還する俳優の演技のテンションに隔てがない。つまり、俳優たちは演技者のオンとオフを見せるのではなく、オンとオフを同じフェーズの「虚構」としてしっかり「演技」している。それだから、格別にオフがオンを批評するというメタ映画的関係ではなく、一種橋本忍的な合いの手の語りとして楽屋は機能し、舞台上のドラマを思いきり盛り上げる(ウェイトレス役の和田光沙や元映画スター役の嶋崎靖らが楽屋で舞台上の推移に意見を飛ばすあたり)。つまり、『貌斬り KAOKIRI』はみごとに、いつものように細野映画なのだな、ということが中盤までには確信できて、それ以降はひじょうに安心してこの熱いフィクションを愉しむことができる。
その軌道に乗ると、まずは舞台上で展開される公演の、アルトマン『ザ・プレイヤー』も真っ青のシニカルな邦画の製作状況の風刺がとにかくおかしい。この既成の映画会社やテレビ局の悪弊をどつきまくるあたりは、確かにこうしたインディーズと割り切ったつくりでないとなかなか今どき難しいかもしれないので、なかなか痛快である。「映画は現場で作られているのではない、会議室で作られているのだ!」と助監督役の森谷勇太が吠えるも虚しく、日本映画黄金時代に思いを馳せつつ饒舌に持論を展開しつづける監督(草野康太が力演)も「哺乳類の時代に生き残ったネッシー」のようにどうしようもない。この全方位ダメな感じが笑わせるとともに、これは細野辰興が本作をなぜ撮ることに立ち至ったのかという壮大なるエクスキューズにも見えてくる。
そして、その映画業界風刺の全ダメ感のなか、当節の困ったゆとり世代のスタッフとして登場する金子鈴幸の演出助手が大いに笑わせて、この前半の主役をかっさらう感じだった。ここにおいては楽屋裏で職業的俳優たちがあんな素人の演技と一緒にやるのは耐えられないといきり立ち、いざ彼がお客の笑いをつかみ出すと、「此方と彼方(玄人と素人)の違いがなくなっていることよ」とニヒルに慨嘆する。このへんのオンとオフの描写はかなり段差をつけて楽屋=オフ部分をライトにやって笑いをとるのが当世流だとは思うのだが、細野演出はこの玄人が素人に呆れるくだりをあくまでマジメに、ちょっと過剰なくらいにマジメにやるので、お客はシニカルな笑いをもって応えてよいのか否かとまどうところではある。それに対し、舞台上の金子鈴幸の扱いは安定していて、金子本人の演技者としてのありようと虚構内の「エセ玄人」の表現がダブッて、実は本作で最もオン/オフの「虚実皮膜」の面白さが出ていたのは金子のくだりではなかったかと思う(余談だが、私は金子修介監督の子息である金子鈴幸が手がけたショートフィルムも観たことがあるが、これもまた魅力的で、ぜひ慌てず騒がず何かをやらかしてほしい期待の星である)。
さて、この序盤で観客もなじんで来たあたりから、伝説のスター・馳一生の顔斬り事件をめぐる本題に突入するのだが、ここでは客観的にロールプレイを通して馳や犯人の真意をつかもうと試みていた監督が、いつしか自分自身の問題として反転したこの顔斬りの物語に巻き込まれてゆく。近年めきめきと映画、舞台で魅力を発散している山田キヌヲが、訳あって女優から裏方のプロデューサーに転じつつある女を好演しており、(ここは映画を観てお確かめ頂きたいが)監督と彼女の「虚実皮膜」が煮詰められることになる。しかし幾度も言うが、ここにおいても俳優のオン/オフの段差がシニスムとともに問われるというよりも、総じて熱血にして直球の恋物語が謳われるのが細野流であり、それはむしろ私には待ってましたであった。内山田洋とクール・ファイヴの「恋唄」(1972年のこの曲はこのグループにとっても思いの深い楽曲と聞くが、細野監督の青春の歌であったのか)とともに高まる草野康太と山田キヌヲのサスペンスフルな恋路は、この狭苦しい小劇場が「近松心中物語それは恋」の森進一こだます帝国劇場にでもなったかのようだった。
さしずめ本作は、「アングラ小劇場の舞台を題材にしたメタ映画」という似合わないしろものに細野辰興が手を出した、というようなものではなく、そういう満載の不安感を爽快に蹴飛ばし、それこそベクトルとしては「大松竹」「大東映」(黄金期の広告にはよく「大」が付いたものだ)のでかい銀幕でこそ観てみたいような作品であった。はたしてこれは生涯一娯楽監督の、矜持が見える熱血篇で、ぜひ観客諸兄には臆することなく劇場に足を運んでほしいと願う。