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『ちむどんどん』では何故1971年にヒットしていない『翼をください』が歌われるのか

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:2019 TIFF/アフロ)

沖縄返還された日は「半休」であった

朝ドラ『ちむどんどん』(主演・黒島結菜)は第三週に入り、時代は1971年である。

昭和46年。沖縄返還の前年である。

沖縄返還されたのは翌年昭和47年の5月15日であり、月曜日であった。

そして沖縄本土返還を祝して、この日の学校は(たぶん官公庁も)半ドンになった。

(少なくとも京都のうちの中学校は半ドンであった)

半ドン。

午前中だけ授業があって(官公庁なら業務があって)午後が完全休みになる半休のことである。この時代、土曜はずっと半休であった。昭和の日本はそういう世界であった。

沖縄は返還されても全休にならない

週休二日が増えるのは平成に入ってからである。

のちに「バブル」と呼ばれる時代も当然週休一日であって、ボディコンのOLたちも土曜半日働いていたのである。会社でボディコンシャスな服は着てなかったとはおもうが。

半ドンだから、学校は午後から休みになるわけで、当時私は中学三年だったから授業が減るので嬉しかったが、でも朝からはあるわけで、なんでまるまる休みじゃないんだよ、と嬉しさも半分だった。

沖縄返還を祝して、日本全国、半日だけ休み、というところが何だかとても中途半端である。

沖縄という存在のなにかを象徴しているかのようだ。

1971年に『翼をください』はヒットしていない

1971年の沖縄はたぶん本土とずいぶんいろんなことが違っている。

『ちむどんどん』では三女の歌子(上白石萌歌)が歌好きで、いつも歌を歌っている。

きちんと日本本土の歌が歌われている。

ドラマ第二週、第三週によく歌われていたのが『翼をください』と『あの素晴しい愛をもう一度』であった。

『あの素晴しい愛をもう一度』は、1971年のヒット曲である。

この夏にみんなで歌っているのはよくわかる。

1971年の京都の中学生もよく歌っていた。

ラジオでもすごくよく掛かっていた。(ただまあ音楽の授業で歌うというのはまったく考えられないけれど)

春や秋の遠足の途中に、「しりとり歌合戦」をよくやっていた。行き帰りのバスの中や、山道を歩いているときに歌う。

「い」となると「いのちかけてとー」で始まる『あの素晴しい愛をもう一度』を必ず選んでいた。なぜかそのことを強烈におぼえている。

「い」で、『翼をください』を歌ったことはない。(歌詞は、いまわたしの、から始まる)

1971年にそういう選択はなかった。

それは1971年の夏には私たちはこの歌をまだ知らなかったからだ。

1971年夏の『翼をください』の違和感

ドラマのなかで、1971年夏に『翼をください』よく歌っているのをみて、ずいぶん不思議な感じがする。

私の知らない世界があったのだろうとおもいつつ、違和感は拭えない。

少なくとも私のまわりでは、『翼をください』は1971年の9月にみんなで歌える歌ではなかった。

昔のものも新しいものもフォークソングをいっぱい歌っていたのに、うちにはまだ届いていなかったのだ。

1971年のヒット曲『花嫁』とB面

この年に流行した歌に『花嫁』がある。

はしだのりひことクライマックスの歌だ。

1971年の前半はラジオをかけるとずっとこの曲ばかりであった。そういう印象がある大ヒットであった。

フォークソングでありながら、歌謡曲のようにも聞こえる、そういう曲であった。

1971年の若者なら『花嫁』はだいたい聞いたことがあったはずだ。

このレコードのB面は『この道』であった。

こっちは知られていない。ヒットもしていない。

私もラジオでもレコードでも聞いたことがなかった。

「歌のしおり」で歌を覚える

ただ、夏に行った二泊三日の林間学校で覚えた。

当時の泊まりがけの学校行事のときには、なぜか「歌のしおり」というものが作られ、みんなで歌える歌詞が書かれたガリ版印刷(ホッチキス留め)の薄い冊子が配られるものだった。『あの素晴しい愛をもう一度』や『戦争を知らない子供たち』『花嫁』などが載せられており、その中に『この道』があったのだ。

いったい誰があの冊子を作ってくれていたのか、いまおもいだすと不思議である。

誰かが歌ってメロディを教えてくれて、みんなもそれに和して歌う。

カラオケが発明される前の日本の風景は、そういうものであった。

「この道」はそうやって知り、大好きになり、そのまま毎日毎日風呂で歌っていた。

1971年当時の好きな歌が『この道』と『さらば恋人』と『さよならをもう一度』であり、この三曲をいつも風呂で歌っていた。

『この道』は、いまだにマイナーな曲である。

知ってる人もいるだろうが、まあ、あまり知られていない。B面の曲らしい存在である。

『翼をください』はもともとB面曲

『翼をください』ももともとそういう位置にあった。

『竹田の子守唄』のB面曲である。

『竹田の子守唄』はラジオでもときどき聞いた。

この時代らしいマイナー調の歌である。われらの「歌のしおり」に載ることもあり、それも歌っていた。

それと同時に発売されたから、記録上は『翼をください』1971年に発表された曲になる。

ただ、発売されてすぐに広く歌われたわけではない。A面がヒットしたときB面はあまり世に出ない。

そこが『花嫁』や『あの素晴しい愛をもう一度』とは違う。

1971年にはまだ私たちの「歌のしおり」には載せられていない曲であった。

ハンバーガーにポテトが合うことを発見した女性

もちろん、どこか特別なエリアではしきりに歌われていた可能性はある。

私周辺の『この道』と同じように、たまたまこの曲を好きな人がおり、沖縄の北部になぜかいちはやく伝わり、そこで特別によく歌われていた、ということはありうる。

そもそも『ちむどんどん』はフィクションであるから、どんな可能性を持たせてもかまわない。

ハンバーガーにフライドポテトという組み合わせを沖縄で最初におもいついたのは、ヒロインの比嘉暢子である、とされても、べつだんかまわない。

その妹の歌子が1971年夏からいちはやく『翼をください』を歌っていても、べつに問題はない。

『翼をください』の歌唱曲としてのすごさ

ただ、この時点では多くの人が歌っていた歌ではない。

『翼をください』を1971年に広くみんなに歌われた曲とすると、ちょっといくつかが違ってくる。

あの曲は、ラジオで大ヒットしたわけでもない。それなのに広がっていった。

そこがこの曲のすごいところである。

「みんなが歌唱する歌」として、実際に歌った人によって、じわじわと広がっていったのだ。

まさに「口コミ」で広がり、国民的な歌唱曲になったのである。

だから、1971年に日本の端っこまで歌が広がっていたと描くのは、いろんな意味でよろしくない。

ドラマではそこは曖昧に描かれている。

ヒットしているとは描かれていない。

ただ、ぼんやり見てると、1971年に広く歌われていた歌には見えてしまう。

1971年と1972年の違い

個人的には、上条恒彦の『出発の歌』と同じころから歌いだしたという記憶になる。

どちらも気分をとても高揚させる歌として、印象深い。

それはだいたい一年遅れ、1972年に中学生にレパートリーに入ってきた、という感覚である。これは個人的な経験でしかない。場所によって多少の前後はあるだろう。

ただやはり「1971年の夏に日本の僻地まで届いている」というのは早すぎる。

こういう歌が教科書に載ったり、音楽の時間に歌われたりするのも、もう少しあとである。

私の感覚では1971年と1972年にきちんと境界線があり、1972年にいろんなことが一挙に起こって、世の中の空気が変わっていったというふうにおもっている。

2022年からみれば1971年と1972年の違いなどどうでもいいかもしれないが、その時代のことを強く克明に記憶している世代と、あと、その時代をいま生きている『ちむどんどん』の暢子や歌子にとては大きな違いのはずである。(もちろん沖縄が返還されるから、彼女たちにとってとんでもない大きな変化が起こるだろう。兄の賢秀にはあまり起こってほしくないが)

1971年の沖縄といえば『17才』

1971年の沖縄の女の子が歌うのなら、まず『17才』ではないだろうか。

沖縄出身の南沙織の曲である。

1971年の夏に大ヒットした。

ラジオでもがんがん流れていた。

南沙織は沖縄出身で、まだ返還前だった沖縄から出て来た歌手として評判であった。

『17才』の「だれもいない海」で始まる歌詞を聞くと、わたしはふつうに沖縄の海をおもいうかべていた(もちろん行ったことなかったけれど)。

1971年の少年の多くはそうだったのではないか。

『翼をください』にこめられた歌子の人生

当時の沖縄のリアルな空気は知らないが、でも「沖縄出身の少女」の大ヒット曲は沖縄でも支持されていたのではないだろうか。

でも歌子は歌っていない。

おそらく比嘉歌子(上白石萌歌)の人生を示唆するに、『翼をください』がいいのだろう。

たしかにいまの歌子は(16話時点)、人前では歌えず、ひそかに心のなかで願いごとを唱えるような少女であるから。

そういう少女が歌うのにぴったりである。

いまの歌子が『17才』を歌うと少し無理がある。

『ちむどんどん』は三姉妹の物語である。

歌子の将来についてもまた克明に描かれるはずだ。

将来の歌子を示唆する意味で、彼女には特別に『翼をください』が選ばれたのだろう。

その先の世界が楽しみである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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