黒田・アジア開銀総裁、日銀総裁就任で円高是正進むか?
日本経済新聞は2月25日付電子版で、自民党の安部晋三政権は3月19日に任期満了となる白川方明・日銀総裁の後任として、ADB(アジア開発銀行)の黒田東彦総裁(68)を起用する方針を固めた、と報じた。黒田氏の日銀総裁が実現すれば、同氏が1990年代後半の超円高当時、大蔵省の国際局長、そして財務官として強力に進めていた円高是正が進む可能性がある。
筆者が黒田氏に取材で初めて会ったのは17年前の1996年ごろだった。当時、黒田氏は大蔵省(現在の財務省)の一部局だった財政金融研究所の所長で、筆者は米国の大手経済通信社ブリッジニュースの東京特派員だった。その関係で、筆者は主に為替相場を動かす材料を拾ってくるのが日常の仕事だったが、ある日、黒田氏の上司だった“ミスター円”こと、榊原英資氏(当時は国際局長)から市場介入についてのコメントを取りそこなったため、急きょ、黒田氏にコメントを求めた記憶がある。飛び込み取材だったものの、温厚で気さくに応じてくれたのが強く印象に残っている。
その後、1997年7月に榊原氏は財務官に就任すると、それに合わせて黒田氏が国際局長に昇格し、二人の名コンビで世界の為替市場で、当時1ドル=80円もの超円高を是正するため、強力な円売り・ドル買いの市場介入を繰り返し、円の存在を世界にアピールしていたころだ。
当時の日銀総裁は国際畑が長かった故・速水優氏(在任1998年3月‐2003年3月)だったが、速水氏は終始一貫、「強い円」を主張し、政府と激しく対立していた。当時の政府は橋本龍太郎政権(在任1996年11月‐1998年7月)下で、大蔵大臣は次期首相の呼び声が高かった故・三塚博氏(在任1996年11月‐1998年1月)だった。ここ数年は財務省による市場介入はおとなしくなったといえるが、当時の市場介入はすさまじいものがあり、故・宮沢喜一元首相が1998年1月に小渕政権当時、日本経済を立て直すために再度、大蔵大臣として擁立されたとき、筆者も宮沢氏から直接、榊原氏と同時の米国の“相棒”だったローレンス・サマーズ財務長官(現在の国家経済会議委員長)のことを「通貨マフィア」と呼んだほどのこわもてだった。
黒田氏は榊原氏の懐刀として強力な円高阻止にあたっていたのだ。1999年9月にワシントンで開かれた先進7カ国(G7)蔵相・中銀総裁会議で宮沢蔵相が参加したあと、筆者も米国に駐在していた関係で、大蔵省幹部と日本の記者団との夕食会に参加、黒田局長の隣に座って談笑したのを覚えている。そのとき、黒田氏が1975年から数年間、IMF(国際通貨基金)の理事を務めており日本代表として活躍していた話を聞いたことがある。
当時、日銀総裁は日銀と大蔵省から交互に選ばれるというのが不文律だった。しかし、財務省からの日銀総裁選出という過去の習わしは、大蔵事務次官を経ていったん民間に下野し、1994年にさくら銀行(当時)相談役から日銀総裁に就任した松下康雄氏(在任1994年12月‐1998年3月)が最後となっている。
松下総裁当時の1998年1月に大蔵省の接待汚職事件が起こり、これが引き金となって、当時の三塚大蔵相と松下日銀総裁が引責辞任し、その後、野党第1党だった民主党が財金分離(1998年6月に財務省から証券局と銀行局を分離し、総理府の外局だった金融監督庁(現在の金融庁)に移管)を押し進め、日銀の政府からの独立性の堅持が守られた。
最近では、政府が2008年3月に大蔵事務経験者の武藤敏郎氏(2003年に日銀副総裁を歴任、現在は三井物産取締役)を日銀総裁候補として推薦し、財務省OBの日銀総裁復活かと思われたが、これも財金分離で勢いがあった民主党の強い反対で衆参両院での同意が得られず、結局、白川総裁が誕生している。その意味で今回の黒田氏の日銀総裁が実現すれば、これまでの日銀の独立性の観点からの大きな転換を意味するといえる。
中央銀行の独立性といえば、ハンガリーのビクトル・オルバン政権の中央銀行への干渉に対し、EU(欧州連合)から集中批判を浴びたのを思い出す。結局、ハンガリーの金融政策決定委員会のメンバー7人のうち、中銀総裁と2人の副総裁の3人だけが中銀出身で、他の4人は政府推薦枠となっており、最近の金融政策決定会合では多数決で政府寄りの決定が行われているのが実態だ。
日銀も今後、黒田氏の日銀総裁就任で安部政権寄りに金融政策が変わり、円高阻止のための介入機会が増える可能性がある。ただ、大蔵省当時の黒田氏から「円安の急激な進行は他のアジア諸国から批判が強い」ということも聞いたことがあり、また、黒田氏がADB総裁だったことから、アジアにも配慮した円安誘導の為替政策になる可能性もある。(了)