家康が浜松城をえらんだ背景には、天竜川?
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浜松まつり(5月3~5日)が大盛況に終わった静岡県浜松市。徳川家康が29歳から45歳(いずれも数え年)まで、17年間も住んだ歴史ある町です。
岡崎城にいた徳川家康が浜松に移ったのは、遠江国(とおとうみのくに)を治めるためですが、居城が決まった背景には、天竜川の流れがあったとは、どういうことでしょうか?
天竜川は、現在では、高く分厚い堤防で制御されていますが、かつては暴れ天竜と呼ばれ、何度となく川の流れを変えていました。
川は、流れる場所を変えながら、土地を削り帯状の面を作る性質があります。その後、隆起などの関係で、取り残された面が高くなると河岸段丘と呼ばれる高台が、川沿いに誕生します。
二俣の辺りまで山々に動きを抑えられていた天竜川は、土地が開けると、東へ西へ大暴れを始め、東西に河岸段丘を作りました。一時期は、浜名湖の場所を貫いていたのでは?という研究もあります。
さて、1570年、岡崎城にいた29歳(数え年)の家康は、新たに切り取った遠江国を治めるために、東の河岸段丘にある見附 (磐田市)に城を築き始めます。
地図 国土地理院地図を加工
しかし、東側では、武田信玄が攻めてきた際に、文字通り背水の陣となり後に引けず、信長の援軍も天竜川越えとなってしまうため、西の河岸段丘に築城するよう、信長に命じられたと考えられています。(産経新聞出版『家康100の決断』による)
こうして、西の河岸段丘(浜松)に築城を始めた家康ですが、まずは既存の引馬城に入っています。
引馬城跡は、現在、元城の東照宮となり、入城したころの家康の像も飾られています(Yahoo!地図)。
引馬城を南西に拡大して作られたのが、浜松城です。大河ドラマ「どうする家康」では、背景に工事をしている様子が映りますが、これは浜松城の築城の様子と思われます。
天守閣はもとは五重天守だったと推定され、やや小ぶりに再建されています。また、家康の時代に天守や石垣はなく、土塁と、かやぶきの建物の構成だったと推定されます(浜松市資料)。
浜松城の天守閣に登ると、西側の河岸段丘に建てられたことがよく分かります。
このように、家康が浜松城を選んだ(選ばされた)背景には、天竜川とその賜物である河岸段丘が大きく関わっていました。
大河ドラマの「どうする家康」は、次回から三方ヶ原合戦に入ってゆきますが、三方ヶ原台地は、河岸段丘(西)の北部にあたる台地です。
※二俣は、天竜川が扇状地に流れ出る場所。必然的に川沿いの道と、東西の道が交わり、二俣城は戦略上の要所となり、のちに二俣の町も発展を遂げています。
浜松城、元城の東照宮とも浜松駅から徒歩で20分前後。バス便もあります。
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