阪神甲子園球場のウグイス嬢・水谷佳世さんのラストアナウンス
「1番・サード、西岡〜」。
いつものように美しい声と明瞭な滑舌のアナウンスが、甲子園球場に響き渡る。5月10日。その日はウグイス嬢の水谷佳世さんにとって最後のアナウンスの日だった。
「平常心で、しっかり間違わないようにやろうって。自分に『普通の日』と言い聞かせながらやっていました。そうじゃないと声が裏返ったりしてしまうので」。
全ての業務をやり終えた後、水谷さんはこう話した。足掛け15年にわたる“ウグイス嬢”の仕事に幕を降ろした瞬間でもあった。
■人生を変えた甲子園球場のアナウンス
石川県出身の水谷さんは高校時代、野球部のマネージャーをしていた。マネージャーの仕事として公式戦のアナウンスもあったが、当時は放送には興味がなく、どちらかというと「やらされている感じがあった」という。将来的にも漠然と「野球に携わる仕事がしたいなぁ」というのはあったものの、「アナウンス」というのは選択肢になかった。
ところが高校3年の夏の大会前に、ある出会いがあった。石川県では3年に一度、甲子園球場の現役ウグイス嬢を招聘し、講習会を開いていた。その講習会に参加した水谷さんは、「当時の私は放送のすごさも深みも何も知らなかったのに、ただただ『すごい!』って感動したんです。『甲子園の放送って、こんなんなんだ〜!』って」と感激した。
その時、講師として訪れたのが、今もウグイス嬢の指導係を務める山崎加代子さんだ。当時「進路を何も考えていなかった」という水谷さんだったが、山崎さんのアナウンスを生で聴いた途端、即、「なりたい!!」と目標が定まった。
しかし、どうすれば甲子園のウグイス嬢になれるのか、さっぱりわからなかった。そこでまず「甲子園でバイトをしよう!」と決め、受付やお茶出しなど甲子園球場内の仕事を見つけた。働きながら、幾度となく「放送に携わりたい」ということを訴え続けた。けれどその度、「欠員が出ないと無理。欠員が出る予定もない」と断られ続けた。
すると3年2ヶ月が過ぎた頃、ようやくその時が訪れた。「たまたま欠員が出て、面接をしてもらえることになったんです」。2001年5月に面接を受け、6月から放送業務に就くことができたのだ。
ただしこれはレアケース。甲子園球場のバイトからウグイス嬢になれるルートがあるわけではない。水谷さんも「たまたまタイミングが合っただけで、本当に運がよかったんです」と強調する。きっと水谷さんの熱意が、野球の神様に伝わったに違いない。
■アナウンス人生で唯一の「頭が真っ白になった」経験
念願が叶った水谷さんだが、いきなり試合のアナウンスはできない。まず新人に与えられる仕事はテレホンサービスの案内だ。甲子園球場に電話すると流れる、あの案内を録音するのだ。そして場外放送のアナウンスも担当する。開門の告知や呼び出し、注意事項などである。
次の段階は、オフの間の貸しグラウンドでの放送業務だ。甲子園球場を借りて野球をする人々の為に試合中のアナウンスをする。
その後、プロの試合に進むのだが、選手と同じでまずはファームからだ。ウエスタン・リーグの試合で経験を積むことになる。
2002年・夏の大会からは高校野球も担当し、いよいよ2003年8月31日、プロ野球の1軍デビューを果たした。
「今も鮮明に覚えています。福原さんが先発されたヤクルト戦で、福原さんが自分で打点挙げて勝った試合。4-1だったかな」。
水谷さんにとっても忘れられない一戦だったそうだ。
何より試合の内容以上に、自身の状態が忘れられない。
「頭が真っ白になったという意味で覚えているんです」。
実は当時、今より複雑かつ難解なアナウンスがあった。試合中、選手の活躍に合わせて提供商品もアナウンスするのだが、例えば「第1安打がホームラン」といった場合、「第1安打賞」「第1生還者賞」「第1打点賞」「第1ホームラン賞」という、これだけの賞とそれぞれの提供商品を紹介しなければならない。それをどう組み立てるかは、その場のアドリブなのだという。試合は生き物なので、何が飛び出すかわからない。それを咄嗟の判断で捌かなければならないのだ。
しかし水谷さんは機転を利かせて、無事乗り切った。「あんなに頭が真っ白になったのは初めてです」。今ではいい思い出である。
■高校野球とプロ野球
甲子園球場は阪神タイガースの本拠地でもあり、高校野球の聖地でもある。アナウンスをする上で違いはあるのだろうか。水谷さんはこのように語る。
「高校野球は球児にとって『一度きり』、『これが最後になる』という思いはもちろんあるけど、だからって変に気持ちが入るとよくない。元々すぐ感動してしまう方なので、逆に気持ちを出さないよう平常心で、しっかりと名前を間違えないよう放送することを心がけています」。
一方、プロ野球は「間違えないことは絶対、当たり前のことで、その上でアナウンスする内容によって変化をつけています。バッターコール、ファンサービスのお知らせ、注意事項…それぞれイメージが違うので」。楽しいお知らせは楽しい気持ちで、注意事項は「気をつけてね」という思いを込めて、だそうだ。
そして、それぞれのアナウンスがより伝わるよう技術向上の努力は惜しまない。
「伝えるために工夫しないといけないことはたくさんあります。起伏をしっかりつける。その起伏の幅も狭くしたり広くしたり。間もそうです。より伝えたいことの前に間を入れたり、とか。高低、緩急…未だに考えることはたくさんあります」。
自分に厳しい水谷さんにとっては、「100%できたことなんて一度もない」と常に反省点があるという。それは誰もが気づく間違いではなく、「この人の名前、起伏がつけられなかったな」というような彼女自身にしかわからないレベルでのことだ。
それだけプロ意識の高い水谷さんに対して、“師匠”である山崎さんも「堅実な放送をしてくれているし、事前に色々なことを調べたり原稿を整理したり準備もしっかりしている。何より最初の志を持ち続けている」と賛辞を惜しまない。
■藤浪投手も好きだという甲子園球場のアナウンス
水谷さんが1軍デビューして間もない頃、球界関係者から「甲子園に“大型新人”が入った」という言葉を聞いたことがあった。選手のことかと思いきや、アナウンス担当の水谷さんのことだった。デビュー当初から彼女の美しい声、明瞭な発声は評判だった。その上、高いプロ意識で努力を続けてきた。
だから時折、「やっぱり甲子園の放送はいいね」―そんな声を掛けられると、「昔から受け継がれてきた甲子園の放送がちゃんとできているのかなと思えて幸せです」と至上の喜びを感じるという。
“甲子園の申し子”藤浪晋太郎投手も、甲子園球場のアナウンスには特別な思いを抱いている。
「高校に入る前から見に来て聴いていましたし、昔から慣れ親しんでいるから印象が強いですよね。ゆっくりしていて基本に忠実、オーソドックスなところが自分自身は好きです。他球場のように盛り上げるのもいいですけど、自分は甲子園のアナウンスが好きですね」。
藤浪投手も好きだという放送スタイルこそがまさに、水谷さんが憧れ、受け継ぎ、大切にしてきたことなのだ。
これから水谷さんは産休に入る。
「1年後、どうなっているか自分でもわからないけど、自分の中ではアナウンスは節目かなと思っています。そのつもりでやっていたので」。
この後は後輩に託した。そして後輩たちへ、こんなメッセージを贈る。
「放送しているときは自分が一番上手だという意識で、自信を持ってやってほしい。間違ってもすぐに切り替えて。この仕事に誇りを持ってやってもらえたらいいなと思います」。
水谷さんのアナウンスが聴けなくなるのは本当に淋しいが、“水谷イズム”を受け継いだ後輩ウグイス嬢たちが、これからも甲子園球場の野球を彩ってくれる。