【橋本市(高野山エリア)】清洲会議で織田家の後継者となった三法師(織田秀信)のお墓参り
某家康のドラマで今回取り上げられた清須会議。
清須会議
天正10年(1582年)6月の本能寺の変において、織田信長は家臣の明智光秀の謀反で自害し、信長の嫡男で織田家当主であった織田信忠も二条新御所で切腹した。そのため、織田家の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である清洲会議が開かれ、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝を差し置き、信長の嫡孫である三法師がわずか3歳で織田弾正忠家の家督を相続した。
和歌山県民には関係ない話題だと思って視聴されていると思いますが、実はゆかりがあります。
一般人にとっての歴史上ほぼ清須会議でしか目にすることのない「三法師(後の織田秀信 ひでのぶ)」。そのお墓は橋本市にあります。
その後の活躍は紀州和歌山に直接関係ないので別途歴史家の解説をご覧頂くとして、三法師の最後について。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属し、岐阜城で敗北。その後高野山に追放。理由は確定されていないものの、高野山から下山し橋本市向副に居を移し、慶長10年(1605年)5月27日生涯を閉じました。享年26。
※墓所は橋本市以外にも、高野山にも存在(光台院境内)。
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「三法師(織田秀信)のお墓」
住所の詳細が無いので、地図アプリで「織田秀信公墓所」で検索下さい。
注意して見ないと、通り過ぎてしまうような場所にあります。
営業時間:24時間