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「最後の被爆者になって世界が変わる瞬間を見届けたい」83歳で見つけたあの日との向き合い方

イソナガアキコフリーライター
中学生の頃の後東利治さん/後東利治さん提供

2024年。広島と長崎に原子爆弾が投下されて79回目の夏を迎える。世界がパリ五輪に沸く一方で、ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ自治区ガザでの戦闘は止むどころか、激しさを増している。誰もが望んでいるはずの平和への道のりはなぜこんなにも遠いのかと思う。

7月も終わりに近づいたある日の午後、私は2年前から被爆証言を始めたという後東利治さん(85歳)に話を聞く機会を得た。長い間、「原爆」と距離を置いてきたという後東さんが83歳で被爆証言を始めた理由を聞くためだ。どんな思いで被爆証言に取り組み、そこにどんな希望を見出しているのか。70年以上の時を経てやっと辿り着いた、後東さん流の平和との向き合い方とは。

家族にも話せなかった辛い被爆体験

自宅に飾られている家族写真/『あのプラタナスの木のように』より
自宅に飾られている家族写真/『あのプラタナスの木のように』より

1945年8月6日。後東さんは6歳の時に、爆心地から約1.2キロの場所にある天満国民学校(現;広島市立天満小学校)で被爆した。とっさに机の下に隠れて九死に一生を得たが、一緒に登校した近所の男の子は亡くなった。救護所までの道すがら、すれ違う人々は皆、やけどで顔が膨れ、皮膚が垂れ下がっていた。その光景を忘れることができず、恐怖に心をむしばまれた。

「こんな体験を今の子どもたちには絶対させたくない」

反戦への思いを強く持ちながら、しかし自身の被爆体験を家族にさえ話すことはなかった。

「いいことじゃないからあまり話したくなかった。それにいつまで経っても戦争や紛争は終わらんし、核もなくならん。自分が証言をしたところで、世界は変わらないと思った」

しかしある1つの新聞記事が、そんな後東さんの気持ちを180度ひっくり返す。それは「原爆きのこ雲ロゴ誇れる? 勇気出し動画 反響広がる」の見出しで、2019年7月の中国新聞セレクトに掲載された、高校3年生(当時)の古賀野々華さんに関する記事だった。

ひとりの高校生の勇気に奮い立つ

被爆証言に関する資料はファイリングしていつでも見られるようにしている/筆者撮影
被爆証言に関する資料はファイリングしていつでも見られるようにしている/筆者撮影

2019年5月。福岡市の高校に通っていた古賀野々華さんは、米西部ワシントン州のリッチランドという町の高校に留学した。その町が長崎原爆の原料であるプルトニウムを製造した町だったことを知ったのは、留学した後だった。留学先の高校は「きのこ雲」を校章にし、生徒たちは「原爆」を誇りに思うといった。古賀さんは驚き、ショックを受けた。帰国直前、日本人としての正直な気持ちを伝えようと、動画を撮影した。

「雲の下にいたのは兵士ではなく、市民でした。きのこ雲は破壊したもので作られていて、誇りに思うことはできません」

古賀さんの動画は反響を呼び、現地や日本の多くのメディアで報道された。

古賀さんが掲載された当時の新聞はコピーして大事に持っている/『あのプラタナスの木のように』より
古賀さんが掲載された当時の新聞はコピーして大事に持っている/『あのプラタナスの木のように』より

「広島にも長崎にもゆかりのない一人の高校生が、アメリカのど真ん中で、きのこ雲の下で何十万の人が亡くなっていたということを伝えてくれた。その勇気に背中を押されました。そして『お前はいつまで黙っているつもりなのか?』と神様に言われた気がしました」
彼女の勇気ある行動に、後東さんの心は大きく揺さぶられた。

その日のうちにペンを取り、小学1年生のときに被爆したこと、古賀さんの勇気に感動し、自分も被爆証言を始めようと思ったことなどを手紙にしたため送った。返事は来なかったが、「背中を押してもらったんだから、私は私なりに前を向いて進もう」と、手紙の事は記憶の片隅に置き、被爆証言を始める準備を進めた。

コロナ禍による足止めと2度目の転機

最初の被爆証言は、毎年8月5日に自宅近くの公園で開催される原爆慰霊祭で行うと決めていた。その慰霊祭にはラジオ体操で集まった子どもたちも参加する。最初の証言は、子どもたちの前で行いたかった。

しかし2020年の慰霊祭は新型コロナ感染症の拡大により中止。翌2021年も役員だけが集まる小規模開催となり、後東さんの願いは叶わなかった。思うように進めない日々が続いたが、不思議と心が折れることはなかった。

そんな後東さんに、2度目の転機が訪れる。きっかけはまたしても古賀さんだった。早稲田大学に進学した古賀さんが、ロシアのウクライナ侵攻を受けてもう一度平和を伝えるため後東さんの被爆証言を映像におさめたいと、手紙を送ってきたのだ。

手紙を送って以来、3年越しに初めて出会った後東さんと古賀さん/『あのプラタナスの木のように』より
手紙を送って以来、3年越しに初めて出会った後東さんと古賀さん/『あのプラタナスの木のように』より

驚きつつも、後東さんはその申し出を快諾。2022年6月、被爆した母校や被爆死した友人の墓を訪ねて回り、古賀さんが構えるカメラの前で、初めての被爆証言を行った。

完成した映像作品は『あのプラタナスの木のように』というタイトルで、ドキュメント専門の映画祭に出品された。惜しくも賞は逃したが、二人の活動は新聞等のメディアで取り上げられ、注目を集めた。現在『あのプラタナスの木のように』は、 YouTubeで自由に閲覧できる。


ショートドキュメント『プラタナスの木のように』(15分)

広島で初の上映会を開催

上映会の一コマ。マイクを持つ後東さんの隣にいるのが古賀野々華さん/筆者撮影
上映会の一コマ。マイクを持つ後東さんの隣にいるのが古賀野々華さん/筆者撮影

2024年7月には、広島市中区土橋にあるコミュニティスペース「樹と鯉」で広島で初となる『あのプラタナスの木のように』の上映会が開かれた。東京から古賀さんも駆けつけ、後東さんは古賀さんのインタビューに答える形で被爆体験を語った。

6歳の時、小学校に登校してすぐ被爆したこと。木造2階建ての校舎はペシャンコになったが、机の下に潜りこんでいて助かったこと。早く家に帰りたくて、瓦礫だらけの道を裸足で歩いていたところを、20代後半くらいの男性に助けられ、救護所へ連れて行ってもらったこと。その道すがら、髪の毛のついた頭皮が剥がれたまま歩いている人や、仰向けになって川を流れる死体をたくさん見て、その夜は一睡もできなかったこと…。

家族のもとに帰った後もしばらくは、夜になると壮絶な光景を思い出し「暗くせんでくれ、ろうそくを消さんといて」と泣き叫んだ。暗くなるとあの日の光景を思い出し、眠れなくなる症状は40歳頃まで続いたという。「今思えば、トラウマとか精神的な疾患になっていたんじゃないかなと思う」と、当時を振り返る。

「6歳ぐらいの子が見てはいけないものを見てしまったわけだからね。でも、そうなったのは私だけかもしれないし、みんなはどうだったのかはわからない」
だからこんな話をしていいものだろうかと、今でも悩むことがあるという後東さんの言葉に、被爆証言の難しさ、そして心の傷の深さを思う。「語れなさ」や「語りにくさ」を抱えながら、それでも一生懸命伝えようと勇気を振り絞って証言されていることを、私たちは忘れてはならない。

125歳まで生きて最後の被爆者になる

被爆証言を始めて2年。最近は特に海外の人や子どもたちへの被爆証言に力を注いでいるという。8月中も、市内のカフェや施設で修学旅行生や若者に被爆証言を行うことになっているという。

G7サミットで世界の偉い人が広島に集まっても何も変わらんかったでしょ。今、トップにいる人たちでは、これ以上前に進めないということです。だから若い人に被曝証言を聞いてもらって、原爆の実相を知ってもらって、彼らが将来偉くなって、みんなで集まって世界を変えてくれたらいいなと思う。それを見届けるために、私は125歳まで生きて “最後の被爆者” になりたい」

「見届けたらバイバイよ」と手を振る仕草を見せた後、「でも最近の状況を見とったら、世界が変わるにはもう少し時間がかかりそうだから、150歳まで生きないといけんかな」と笑った。

過去を振り返り「もし、こうしていれば…」と後悔しても歴史は変わらない。でも今、「もし、こうすれば…」と考えを巡らし良い選択を積み重ねれば、未来は変えることはできる。

「良い選択は、過去の学びの上にある。だから未来のために、子どもや若者に自分の被爆体験を証言し続ける」
83歳でやっと見つけた、後東さん流の平和との向き合い方だ。

フリーライター

約10年のWEBディレクター業ののち、2014年よりフリーライターへ。瀬戸内エリアを中心にユニークな人・スポットの取材を続ける。本・本屋好きが高じて2019年、本と本屋と人のあいだをつくる「あいだproject」を主宰。ブックイベントの企画・運営にも関わる。

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