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ジャニー喜多川、メリー喜多川を間近で見てきた人物が語った旧ジャニーズ事務所トップの素顔

篠田博之月刊『創』編集長
会見で母との確執を語ったジュリーさんだったが(筆者撮影)

旧ジャニーズ事務所のトップを間近で見てきた人物

 一時は芸能界で権勢を極めた旧ジャニーズ事務所は2023年、事実上崩壊した。メディアはそれについて大量に報じたが、同事務所に以前から食い込んで取材してきたジャーナリストは実はほとんどいない。今回インタビューした元集英社の小菅宏さんはその意味で貴重な証言者だ。性加害問題の背後にあったジャニーズ事務所の体質、トップ2人の素顔を語っていただいた。(以下、インタビューでは一部敬称略)

――小菅さんがジャニーズ事務所に関わった経緯をお話いただけますか。

小菅 私は集英社に入社して、『週刊セブンティーン』に配属され、ジャニーズ事務所を中心に芸能界を担当しろと言われたのです。日本の芸能界って、ほとんどムラ社会で、村長みたいなのが牛耳っているんですね。よそから入ってきた人間にものすごく冷たい。ジャニーズ事務所って音事協(日本音楽事業者協会)に入らなかったんですよ。メリーにとって日本の芸能社会は敵だったんですね。「私は敵の中に入ったようなものよ」というニュアンスのことを言ってました。

小菅宏さん(自宅にて筆者撮影)
小菅宏さん(自宅にて筆者撮影)

 ジャニーズ事務所はジャニー喜多川とメリー喜多川の両輪で成立していたんです。ジャニーは当初アメリカをすごく意識していて、初代の、私は元祖って言うんだけど、元祖ジャニーズをアメリカに連れてったんです。ある時期までジャニーはアメリカナイズされたものが日本でウケるという確信があったんですね。

 ただ「嵐」が1999年、ハワイでデビューのお披露目をするんですが、それ以後、ジャニーは目立ってそういうことをしなくなります。彼は気がついたと思うんですね。アメリカにプラス日本、つまりジャパニーズの色彩を入れなきゃいけないと思うようになるんです。私は彼のやり方を見ててそう思いました。

 一昨年、TOBEという事務所を立ち上げた滝沢秀明をジャニーは評価し、自分の後継者と思ってたんですが、ジャニーは2000年前後に、滝沢歌舞伎という、アメリカナイズされたものと日本の歌舞伎を混ぜたステージをやるようになるんです。私はそれを見た時に、ジャニーはアメリカにある種見切りをつけて、それだけじゃ駄目だと思うようになったんじゃないかと思いました。

メリー喜多川の言う「ウチの子」とは

――ジャニーズ事務所はある種ファミリーだったわけですね。メリーさんは所属タレントを「ウチの子」と言っていた。

小菅 ジャニーズ事務所の特徴は、その「ウチの子」という言葉に表れているんですよ。親鳥は小鳥を抱えて育てて、外敵から守るじゃないですか。あれと同じで、ファミリー意識が強い。今1200万人いると言われる後援会みたいなのもジャニーズファミリーですよね。

 メリー喜多川から珍しく私に依頼があって、48年前に初めて出した本が『ジャニーズ・ファミリー』です。私が集英社に入社して数年後で、上司に言ったら「駄目だよ」「お前、会社クビになるよ」と言われました。でも、まあ辞めてもいいかなと思って、当時、実家が大泉学園(練馬区)だったんで『和泉ヒロシ』という名前で出したんです。

 5年前にある女性誌の編集者が来て、「今私たちの間で『ジャニーズ・ファミリー』ってこの黄色の本がものすごい価値があるんです」と。「この和泉ヒロシってご存知ですか?」と言うから、笑って、それは私ですよと言ったら「えーっ」て5分間ぐらい絶句してました。

 ジャニーズに関する初めての本でしたから当時よく売れたんです。メリーの言う「ジャニーズ・ファミリー」というのは、つまり自分のところ以外は認めないということなんですよ。「ウチの子だから最高なの」という意識なんです。

――メリーさんは気に入らない記事が出ると強硬に抗議し、「ウチの子を守るためなら悪者になってもいい」と言っていたといわれますね。

小菅 私が出した本に対しても気に入らないと攻撃してきました。2007年に講談社で出した『「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』も「許さない!」と、ものすごい剣幕だったようです。私は集英社を辞めて何年か経っていたのですが、『明星』の編集部長だった後輩から電話がかかってきました。「今朝メリーさんから電話があって、小菅さんが出した本をすぐ出版禁止にしてよと言われた」と言うのです。そんなことできるわけがないですよ。2022年に青志社から出版した『女帝 メリー喜多川』についても、ジャニーズ事務所のホームページに抗議文を載せました。でもメリーから直接、クレームが来たことはなかったですね。

小菅さんの近著。左は2023年刊(筆者撮影)
小菅さんの近著。左は2023年刊(筆者撮影)

 ジャニーズのタレントに聞くと、メリーは「お母さんみたいだ」というんです。確かに私から見ても母性愛がある人だと思います。ジャニー喜多川が2歳のときに母親が亡くなるのですが、ジャニーの5歳年上の彼女は、母親のように弟のめんどうをみたと言われています。

 一方で、彼女には3つのコンプレックスがあって、それを克服するために強面になったと私は思っているんです。コンプレックスというほどのことではないですが、1つは、初期の段階で、NHK紅白歌合戦にうちの子を出させるってことをしきりに言ってました。

 2つ目は皇室関係なんですが、一度、「学習院の常磐会というのに小菅さん、一緒に行って」と頼まれたことがありました。常磐会というのは、学習院大学関連の女子卒業生の母の会みたいなもので、なぜそこに行くのかわかりませんが行きました。そして結婚した相手が藤島泰輔、今の上皇の同級生なんですよ。

 そしてもう一つ、最初のバンドの名前は「ハイソサエティ」というんです。上流社会。これはメリーさんがつけたんですが、そういうものに対するこだわりが強いんですね。だから私は、これは彼女にとっての生きがいなのか、コンプレックスの裏返しだなと思いました。

ジャニーとメリーはジャニーズ事務所の両輪

――最初にメリーさんに会ったのはどこだったのですか。

小菅 有楽町にあった日劇の楽屋でした。フォーリーブスがウエスタンカーニバルに出るというので取材に行きました。そしたら「明日遊びにいらっしゃい」というので翌日、行ったんです。印象深いのは、大きなスケジュール表があって、彼女は「私は白いスケジュール表が大嫌いなの」と言ってました。白いというのは予定があまり入ってないということで、タレントの仕事をたくさんとってくるのが彼女の生きがいなんです。

 ジャニーは少年を見つけてショービジネスでエンターテイナーにするのが生きがいでしたが、メリーはビジネスで成功するのが夢だったのですね。その点でも2人は両輪で、お金の問題ではジャニーは比較的、無頓着でした。

――タレント発掘は、ジャニーさんのプロデューサーとしての手腕でしょうか。

小菅 もっと言うと、少年を見つける能力ですね。10歳の男の子の顔を見ると、その子が40歳になった時の顔が想像できると私に言ってました。結果として、ジャニーズタレントは40歳になっても50歳になっても活躍してますから、それは正しかったんじゃないですか。

 ジャニーはいろいろな場所で少年たちのオーディションをしてましたが、「小菅さん来る?」というんで、行ったことがあるんです。椅子を並べるのはジャニー自身で、少年たちがどんどん集まってくるんです。並べ終わると、飲み物を買いに行って、渡したりしてる。30分ぐらい経つと、みんな「ジャニーさんまだかな」なんて言い始めるんですよ。そしたら「ジャニーは僕だよ」と言って、みんな「ええーっ」となる。私はそばで座って見てましたが、「じゃあ今日のオーディション終わり」って、3人ぐらい指名して、「ユーたち、明日事務所に来ちゃいなよ」などと言うんですね。

 後で聞いたら、やっぱり飲み物をもらった時にちゃんと「ありがとう」って言ったりとか、それから足投げ出して椅子で待ってる態度とか、「そういうのを僕は見てた」とジャニーは言うんです。もちろん見栄えは大事なんですが、態度とか、育ち方がステージに反映することもあるから、と自信ありげでした。

 そしてジャニーは少年たちに「運動は何する?」って訊くんです。ジャニーは野球帽を被ってて、そう訊かれて「野球」と答えると喜ぶんだけど、私はある時、「なんでスポーツなんですか」と訊いたことがあるんです。そしたら「歌はある程度先生につけば歌えるようになる。芝居も勉強すればそれなりにできる。でも踊りはいくら教えても運動神経がないと駄目なのよ」。なるほどと思いましたね。

娘ジュリーとメリーの母子関係

――昨年の性加害問題の中で、メリーさんの娘のジュリーさんが、母とは対立していて、自分にはほとんど権限がなかったと強調していましたが、小菅さんから見て2人の母子関係はどうでしたか。

小菅 私の印象は違いました。私から見ると、ジュリーは、お母さんとべったりでした。仲の良い親子に見えましたけどね。

 なぜ記者会見であんなことを言ったかというと、やっぱり自分の身を守りたかったんですよ。母親を悪者にすることによって、自分は母と対立しながらやってきたと強調した。私はその意味で、企業のガバナンスが全然なってない会見だと思いました。涙をこぼして大事な話は東山に振るみたいな感じだったでしょう。

――SMAPを育てたマネージャーの飯島三智さんと、「嵐」を育てたジュリーさんが一時、ライバルと言われながら、メリーさんは2015年、『週刊文春』のインタビューの中で、飯島さんを切り捨て、娘が後継者とアピールするわけですね。

小菅 その前段としてKinKi Kidsがいるんですよ。ジャニーズJr.の中で人気抜群だったこの2人を組ませて、しかも関西出身同士なんでKinKi Kids。初めはカンサイボーヤとかいう名前だったんですが、これは絶対売れるから担当すれば実績になるし、次期社長に推薦できるという、メリーなりの深謀遠慮があってジュリーに任せたんだけど、失敗するんです。KinKi Kids自体は成功するんだけど、ジュリーは意思疎通がうまくとれなくて、KinKi Kidsの2人は何かというとジャニーに相談をしてて、ジュリーは浮いちゃうんですね。それにメリーは気がついて、これはまずいと1回引き上げるんです。

 その後、ジャニーが、櫻井翔を中心とした「嵐」を作ろうと考えたんです。5人が将来、事務所の柱になるという見方は、ジャニーの本当に鋭いところで、メリーも、今度こそジュリーに任せようと考えたわけです。その結果、「嵐」は成功するんですね。メリーにとって大事なのは喜多川家、藤島家で、次の社長をジュリーにしようというのは、当初から既定路線だったと思います。

――でも会見でジュリーさんが言ってる母親との対立感情は強烈ですよね。

小菅 私の印象は違います。私が見ていた時には、もう親子一緒にシャネルの高級バッグを持ってました。

 メリーとの思い出で言うと、渋谷に事務所があった時代、中学生や高校生が、出待ち入り待ちでいつも集まっていたので周りからクレームが来たんです。新聞にもそれが出てしまい、朝、メリーから電話がかかってきて、「小菅さん、これから警視庁に行くんだけど付き合って」と。「どうしたんですか」と訊いたら、今朝の新聞で書かれて大変で…と。そこで私も一緒に、メリーが運転する車で行ったんです。警視庁記者クラブで、30人ぐらいの記者を前に、メリーがえんえん30分間ぐらい説明しました。これから一切迷惑かけないようにしますからみたいなことを言ってたと思います。

 あの頃、私は23~24ぐらいで若いし、いろんなことに付き合わせるには手頃だったんじゃないでしょうか。何かというと連絡してきました。私の出す企画もほとんどOKでした。例えば、郷ひろみの後ろにジャニーズJr.がバックダンサーとして9人いたんです。彼らがすごく人気になって、9人を3人ずつ、札幌と大阪と福岡に散らばせて、何月何日何時に『セブンティーン』という雑誌を持っていけば彼らと握手ができるという企画を私が考えたんです。その後「AKB48」とかが同じことやってましたが、最初に考えたのは私なんです。会社には最初、駄目と言われましたが、「絶対に雑誌が売れます」と言って、実行したんです。

 そしたら大成功だったんですが、大阪で事故が起きてしまいました。ファンが熱狂的で、最前列に並んでた女の子数人が転んでけがをしてしまったのです。大阪の夕刊紙に記事が大きく載って、すぐ会社に警察から電話があり、翌朝早く私は新幹線に乗って行き、延々夕方まで事情聴取を受けました。

 さすがに帰京して翌日顔出したらメリーも渋い顔してましたね。2週間くらい口をきいてくれませんでした(苦笑)。ただ私は約10年間つきあいました。麻雀もやったりしました。青山にあった「大使館」という雀荘でね、いかにもメリーが好きそうな名前じゃないですか。

ジャニーの少年の見方と性加害問題

――ジャニーズ事務所は辞めたタレントを干し上げると言われましたね。

小菅 さっき言った「ウチの子」イズムなんですよ。自分の子しか可愛くない。だから自分の懐から去ったタレントは許さない。イコール共演拒否ですね。ある程度、事務所が実績を積んだ後ですが、「ウチの子」を使うんだったら、あれと共演は駄目よと。

 2000年前後に、メリーは高層マンションのいいところに住んでいたんですが、そこで定期的に、テレビ局の会長とか、上級幹部と食事会を行っていたんです。メリーってそういうつきあい方がうまいんですよ。だから最近言われてる「忖度」みたいなことが蔓延して何十年も続いたわけです。今騒がれてる性加害というのはその裏側ですから。

 性加害については私も当時はわからなかったんですが、ジャニーに呼ばれて、渋谷の事務所で写真を選んだことがありました。「小菅さんちょっと来ない?」と言われて行ってみると、10畳以上ある和室にダンボール箱が積んであって、ある箱を開いたら畳の上に何千枚という少年たちの顔写真が広がったんです。「この中で、小菅さんがグループを組むとしたら誰がいいか選んでみて」というので、私が美少年を選んだら、「こんなの全然駄目」と言われました。彼はまずグループの中の1人だけ選ぶんです。センターに配置するプリンス的な少年ですね。あとはそのプリンスが持ってないキャラクターを選ぶ。私はその後思い返して、結構奥が深いんだなと思ったことがありました。

 ジャニーって父親がお坊さんだったんですね。ロサンゼルスで、喜多川諦道というんだけど、まだ1930年代に、在留邦人を慰めようと定期的にコンサートを開くんです。日本から有名な歌手を呼んで、お寺を会場にしてやるんです。その頃ジャニーは「ヒー坊」と呼ばれていたんですが、今思うと、あの時にショービジネスを初めて観たんですね。有名な作曲家の服部良一も来ていて、メリーはその後、帰国してから服部夫人と四谷に「スポット」というカウンター・バーを開く。日本の芸能史の1ページは、ジャニーズ事務所と関連がある気がします。

――小菅さんは、性加害についてメリーさんに聞く機会はなかったんですか。

小菅 一度聞いたことがあるんだけど、「ジャニーは病気なのよ」と。メリーは親しい人にもそう言って終わってた。その話をすると、突然不機嫌になって口をきいてくれないんです。それが聞かれたくない話だということは、イコール彼女は知ってたんですね、弟のその性癖を。

――ジャニーズ事務所は権勢を極めながら、昨年一気に崩壊しましたね。

小菅 創立から解体まで、日本の芸能界でも特異な存在じゃないですか。

――旧ジャニーズ事務所由来の新会社はスタートエンターテイメントとして、芸能事務所の近代化を唱えていた福田淳さんが社長に就いたわけですが、この展開をどうご覧になりますか。

小菅 東山を社長にして新会社を設立とか当初、言っていたので、私は昨年出版した『ジャニーズ61年の暗黒史』(青志社刊)の冒頭に、それはできないだろうと書きました。スターは自分がスターだと思っているから、自分より優秀な人材というか、才能を認めようとしない。元スターだった東山が芸能事務所を経営するのは難しいと思ったのです。

 実は、スターが事務所経営するのは難しいというのは、昔、ジャニー喜多川に聞いたことがあるんです。彼は自分がこれだけやったんだという自負があって、それを私に示そうと思ったのでしょう。プライドが高い人間でしたから。でも彼のその指摘は当たっている気がします。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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