南極に置き去りにされた「タロとジロ」はなぜ生き抜けたのか
今日、1月14日は南極観測隊に犬ぞり用として同行した樺太犬、タロとジロの生存が確認された日だ。南極に鎖につながれたまま、置き去りにされた樺太犬は15頭。その中でタロとジロだけが生き抜いていたのはなぜだったのだろうか。
南極観測隊と樺太犬
日本の南極観測の歴史は、南極点到達競争のために南極探検隊を結成した白瀬矗(しらせ・のぶ)の1912年にさかのぼる。白瀬らは南極点に到達できず(アムンゼン隊とスコット隊は同年に到達)、犬ぞり用の樺太犬、20頭をやむなく南極に置き去りにしている。
このように各国の初期の南極観測隊では犬ぞりを使うことが多く、日本の場合、それは樺太犬だった(現在、いかなる動物も南極では使用不可)。樺太犬は、現ロシア領の樺太の先住民が犬ぞりや川船の牽引などの使役に使っていた北方系の犬種で短毛種と長毛種があり、現在では交雑が進んで絶滅している。
白瀬らが使ったのは、探検隊に参加したアイヌの2人が飼育担当をしていたことから、樺太から北海道へ伝わった樺太犬と考えられている。また、樺太犬の慰霊碑は樺太に現存するようだ。
北方の動物研究、アイヌ研究の泰斗であり、北海道大学名誉教授だった犬飼哲夫氏は、戦後の第1次越冬隊(1958年)のために北海道内の樺太犬を犬ぞり用として集めて訓練した。
犬飼氏によれば、樺太犬の体重は20Kg台から30Kg台、体高は50cm台から60cm台半ばであり、当時すでに交雑が進み、北方のライカ犬種やエスキモー犬種などの特徴があり、土佐犬のような垂れ耳のものや体毛も白黒ブチや白、黒など多種多様だったという(※1)。
また、樺太犬の性格は温和で従順、ヒトによく慣れ、優れた方向感覚や帰巣本能を持ち、寒さや粗食によく耐え、牽引力が非常に強いが暑さには弱いという特徴がある。犬飼氏らは第1次越冬隊のために樺太犬の訓練を始めたが、樺太犬の犬ぞりは世界の犬ぞり(10頭牽き)の標準積載量や1日の走破距離よりも好成績を示したという。
置き去りにされた樺太犬
戦後、敗戦国だった日本の南極観測への参加は遅れたが、第1次南極観測隊が結成され、南極観測船「宗谷」は越冬隊員らと22頭(幼犬2頭)の樺太犬を乗せ、1956年11月8日に東京・晴海埠頭を出発する。
第1次南極観測隊は当初、犬ぞり使う予定ではなかったという。だが、当時すでに雪上車のようなものがあったものの、犬ぞりへの信頼は近代的な雪上車より高かった。
そのため、樺太犬による犬ぞりが第1次南極観測隊に採用された。実際、雪上車は1年間に1台あたり約420Kmで動かなくなったが、犬ぞりは1600Kmを走ってなお余裕があったという(※2)。
22頭の樺太犬のうち、1頭は船内で死亡、2頭は越冬せず、宗谷とともに1957年2月15日に日本へ向けて離氷した。第1次の越冬に参加したのは18頭とメスの子犬1頭の19頭となったが、そのうち3頭が死亡し、1頭は8頭の子犬を出産した。
1958年2月、第1次越冬隊戦は第2次越冬隊と交代する。その交代作業中に気象状況がきわめて悪化し、第2次の越冬を断念、第1次越冬隊や資材機材、そして出産した母犬1頭と8頭の子犬を救出したものの、宗谷の脱出が不能になる危険性もあり、15頭の樺太犬を鎖につないだまま、1958年2月24日に無人の昭和基地に置き去りにせざるを得なかった。
翌1959年1月25日、第3次南極観測隊が昭和基地に到着する。置き去りにして335日が経っていた。
第3次南極観測隊は、そこでタロとジロが奇跡的に生存していることを確認した。残りの13頭の樺太犬のうち、鎖につながれたまま餓死したのは7頭、首輪を抜け出して行方不明になったのが6頭だった。
タロとジロは当時4歳、同腹の兄弟犬だった。ジロは第4次の越冬中、1960年7月25日に死亡(腎肥大と毛の異食か)、タロは第3次から第5次の越冬隊に貢献し、1961年4月20日に帰国し、北大の植物園で飼育され、1970年8月11日、14歳7カ月の生涯を閉じた(※3)。
タロとジロはなぜ生き抜けたのか
この物語は映画『南極物語』(蔵原惟繕監督、高倉健主演、1983年)にもなったが、ではタロとジロはなぜ南極の過酷な環境でいきぬけたのだろうか。
犬飼氏によれば、首輪を抜け出せなかった犬が餓死してしまったのは当然だったが、タロとジロはまだ幼犬の段階で犬ぞりの訓練を始めたのに比べ、他の樺太犬は成犬を集めたので、首輪を抜けだした場合、帰巣本能から南極の雪原へ迷い込んで息絶えた。
一方、タロとジロは昭和基地が自分の家と思い、昭和基地から離れずにいた。これが大きかった。
タロとジロは残していったイヌ用のエサを食べた形跡はなく、アザラシの糞、クジラなどの打ち上げられた死骸、人間用の食料などを食べていたのではないかと考えられている。特にアザラシの糞は樺太犬が好んで食べた。
ただ、タロとジロが実際にアザラシやペンギンを襲って食べることは観察されていない。また、残された樺太犬で最年長のリキ(7歳)は行方不明とされていたが、その後の調査で昭和基地のそばから遺骸が発見され、リキがタロとジロの世話をしていたのではないかという推測もある(※4)。
犬飼氏は、南極に置き去りにされた樺太犬が生存していることを予測していた。なぜなら、樺太犬は皮下脂肪がよく発達し、耐寒性が高い。マイナス摂氏30度の気温でも雪上で寝起きし、2週間近い絶食にも耐えるからだという(※5)。
タロとジロは、まず首輪を抜け出すことができた上で昭和基地を離れなかった。そして、アザラシの糞や死骸などを食べながら、2頭あるいは3頭(リキ)で協力し合い、樺太犬特有の粘り強さで生き抜いたのである。
※1:犬飼哲夫、芳賀良一、「日本南極地域観測隊犬橇関係報告(I)」、南極資料、第5号、1958
※2:北村泰一、「日本南極観測黎明期における京都大学のかかわり」、京大地球物理学研究の百年(II)」、第2巻、84-93、2010
※3:中村良一、「南極観測隊樺太犬の追悼記(II)」、日本獣医師会雑誌、第34巻、395-398、1981
※4:嘉悦洋、「その犬の名を誰も知らない」、小学館、2020
※5:芳賀良一、「無人の昭和基地(南極)における樺太犬の生存について」、帯広畜産大学学術研究報告、1963