無人島からの復活、青ヶ島の還住
青ヶ島は絶海の孤島に浮かんでおり、現在でも日本最後の秘境と言われています。
そんな青ヶ島ですが、実は江戸時代に一度無人島化したことがあります。
そこで今回は、青ヶ島の無人島化とそこからの復興について紹介していきます。
噴火前はユートピアだった青ヶ島
青ヶ島の人々の居住開始時期は不明確であるものの、記録によると15世紀にはすでに居住していました。
この島は黒潮に囲まれ、荒波が多いため船の航行が困難であり、周囲を50から250メートルの海食崖が取り囲んでいることも船の接岸を難しくしているのです。
このため、15世紀の記録には船の遭難に関するものが多く、現在に至るまで船の往来の困難さが続いています。
しかしそんな青ヶ島ですが、近くの八丈島や八丈小島と比較して食糧事情が良いという利点がありました。
19世紀のサツマイモの普及以前、八丈島や八丈小島は台風の風害により頻繁に食糧危機に見舞われていたものの、青ヶ島は成層火山の山頂部に位置し、島の南部にある池之沢という大きな火口地帯が作物の保護に役立っていたのです。
池之沢は強風を遮る地形であり、肥沃な土地と淡水の池も存在していたため、農業が盛んに行われていました。
しかし、青ヶ島は火山活動の影響も受けやすい地域であり、1652年と1670年には池之沢内で火山活動が記録されています。
それでも小規模なものであったため、島民に大きな影響はありませんでした。
青ヶ島における最も重大な災害は1774年から1785年にかけての火山噴火です。1780年の群発地震に続いて池之沢で噴火が発生し、大量の湯が噴き上がり、池の水位が上昇しました。
耕地は塩水によって被害を受け、噴煙による農作物の損害も発生したのです。
1781年には火山灰の噴出が続き、池の水位の変動とともに農地が破壊されました。
1783年の噴火では、池之沢に大きな火口が出現し、灼熱した噴石が降り注いだため、14名が死亡し、61軒の家屋が焼失したのです。
火山灰の降り積もりによって島全体の耕地が壊滅し、水源も失われ、生活は極めて困難となりました。
このような状況の中、1785年の大噴火が発生し、島民は全島避難を余儀なくされました。
3月10日に始まった噴火は激しく、黒煙と火の玉が飛び交う中島民たちは火山灰と噴石の影響を避けながら生活を続けたものの、水と食糧の不足が深刻化したのです。
八丈島から派遣された救助船は、青ヶ島の200人余りの島民を救出するために接岸しましたが、全員を乗せることができず、多くの島民が噴火の中で命を落とすこととなります。
最終的に108名の島民と1名の流人が救助され、130 - 140名の島民が青ヶ島で亡くなりました。
この悲劇的な避難の記録は、八丈実記に詳細に記されています。
後年、青ヶ島への帰島が試みられる中でネズミの害が激しくなり、亡くなった島民の霊魂が化したものと信じられ、供養が行われるようになりました。
なかなかうまくいかない帰還
八丈島に到着した救助船には、天明5年の噴火で避難してきた約160名の青ヶ島島民が乗っていました。
さらに、噴火前から八丈島に住んでいた約40名を加えると、合計200名の青ヶ島島民が八丈島で生活を始めたのです。
八丈島大賀郷の青ヶ島島民墓地は、過酷な生活を物語っています。
八丈島自体も1766年から1769年にかけて大飢饉に見舞われており、住民の生活は厳しかったのです。
避難してきた青ヶ島島民たちは、八丈島の住民の使用人として生活を維持していたものの、飢饉の影響で非常に困難な状況に直面していました。
青ヶ島の名主七太夫は、噴火と避難を報告し救援を求めるために江戸に向かいました。
そこで米や麦、大豆などの救援物資が送られることになったものの、その途中で船が破壊され七太夫も死亡したのです。
しかし、八丈島の高村三右衛門は、自身の蓄えた500両を青ヶ島島民の救済のために提供し、この資金は島民の食糧購入や復興に充てられました。
1788年に行われた八丈島役所の見分では、噴火は収まり草木が戻りつつあったものの、耕作地は火山灰に埋まり、人が住むには厳しい状態であることが確認されました。
その後、1789年に名主三九郎が青ヶ島の見分を行い、少数の島民が復興を開始し、最終的に全島民の帰還を目指すことを提案したのです。
幕府からも復興開発費が支給され、三九郎は復興事業を進めました。
そうして1793年に青ヶ島の復興が始まりましたが、ネズミの害が深刻で、多くの作物が食い荒らされる事態となりました。
復興に従事する島民たちはネズミの駆除に努めたが、効果は限定的だったのです。
さらに復興中に多くの困難が続き、食糧不足や船の難破など、様々な試練に直面しました。
それでも諦めず、1797年には名主三九郎が再び青ヶ島への復興を試みたものの、船が難破し三九郎も死亡することとなりました。
彼の死後も青ヶ島島民は帰島を目指し続けたが、再度の漂流事故や厳しい自然環境に阻まれ、青ヶ島への完全な帰還は実現しなかったのです。
1801年には、青ヶ島の復興に従事していた島民が八丈島に戻り、青ヶ島は一時的に無人島となりました。
その後も復興の努力は続けられたものの、八丈島の飢饉や厳しい生活環境の中で、青ヶ島への帰島は困難を極めたのです。
さらに噴火から20年以上が経過し、青ヶ島での生活経験を持つ者が次々と亡くなり、青ヶ島への帰還はますます難しくなっていきました。
約40年ぶりに帰還に成功
1817年、佐々木次郎太夫伊信は青ヶ島の名主として、その復興に乗り出しました。次郎太夫は、青ヶ島の噴火後の荒廃した土地を目の当たりにし、八丈島に避難していた人々の生活が困難であることを痛感しました。
彼は、経験豊富な島民が高齢化しているため、若い世代だけでは復興が難しいと指摘し、早急な帰島の必要性を訴えたのです。
次郎太夫は、復興のための綿密な計画を立てました。
まず、青ヶ島と八丈島をつなぐ船の航行を再開し、強健な男性27名を選抜して復興作業にあたらせましたのです。
彼らは住居の再建、食糧倉庫の建設、農作物の栽培を開始し、次郎太夫の指揮のもと、和の精神で一致協力して作業を進めました。
復興費用の面でも次郎太夫は慎重に計画を立てました。
高村三右衛門が拠出した運用金や幕府からの支給金を活用し、不足分は翌年の運用金を前借りする形でまかなうこととしたのです。
また、青ヶ島と八丈島間の船の航行については、天候を綿密に観察し、安全な時期に出航するよう指示しました。
この対策により、船の遭難事故が一度も起こらず、無事に運行されたのです。
1818年には、青ヶ島の復興が本格化しました。
次郎太夫の指導のもと、青ヶ島では米、粟、麦が栽培され、多くの島民が青ヶ島へ戻り生活を再開しました。
しかし、復興の過程でネズミの害や人間関係の悪化などの問題も発生しましたのです。
次郎太夫はこれらの問題に対処し、島民たちの協力を得ながら復興を進めました。
最終的に、1824年にはほとんどの島民が青ヶ島に帰島し、島の復興が大きく進展しました。
女性たちがネズミの駆除に尽力し、土地の開墾や船着場、道路、水源地の整備が行われたのです。
1835年には青ヶ島は検地を受け、年貢の納入が決定されました。
復興が成し遂げられた青ヶ島は、1844年に次郎太夫に対して銀10枚の褒賞と苗字を許される名誉が与えられたのです。
次郎太夫は1852年に86歳でその生涯を閉じましたが、彼の功績は青ヶ島の歴史に永遠に刻まれています。