日銀総裁・副総裁の人事案における一抹の不安、このメンバーで金融政策の正常化は可能なのか
政府は日銀の黒田東彦総裁(78)の後任に経済学者で元日銀審議委員の植田和男氏(71)を起用する人事を固めた。黒田氏の任期は4月8日まで。政府は人事案を2月14日に国会に提示する。衆参両院の同意を経て内閣が任命する(10日付日本経済新聞)。
植田和男氏は1990年代前半に起きた「岩田・翁論争」の仲裁者としても知られる。国内でも金融政策に精通した学者である。実務面としても1998年から2005年まで日銀審議委員に就任し、金融政策に関わっていた。
その審議委員の任期中である1999年2月のゼロ金利政策が導入された。そして2000年8月にはこのゼロ金利政策が解除された際に、植田審議委員は中原伸之審議委員とともに反対票を投じていた。中原氏はいわゆるリフレ派の元祖的な存在であった。
この際にどうして反対票を投じたのか。それについては議事録がすでに公開されているので、こちらで表面上は確認できる。
「日本銀行金融政策決定会合議事録(2000年8月11日開催)」 https://www.boj.or.jp/mopo/mpmsche_minu/record_2000/gjrk000811a.pdf
ここでの議論では資産デフレから脱却云々の発言はあったが、じつは政治的な側面が抜け落ちている。元々、1999年2月のゼロ金利政策はデフレ脱却のためとか、景気悪化のために行った政策ではない。
1998年末からの運用ショックと呼ばれる国債価格の急落を受けて、米国債の合わせ切りを懸念した米国サイドからの外圧によって、日銀に押しつけられた政策であった。日銀とすれば、国債価格が安定したことを見越してゼロ金利解除に臨んでいたのである。
ただし、この際には政府からの出席者から議決延期請求権が出されるなど、利上げに対する拒否反応も大きかった。さらにその後のITバブルの崩壊もあり、このゼロ金利解除は失策であったとの見方もある。しかし、植田氏がITバブル崩壊まで見越していたとは考えられない。
植田委員は中原審議委員とともに利上げには拒否反応を示したようにみえたのである。これからも植田氏は中立というよりもリフレ派にやや近い位置にいるというのが私の認識となっていた。
そして副総裁には氷見野良三前金融庁長官、内田真一日銀理事を起用するとあった。両者とも国際派であるとか。氷見野氏はさておき、内田理事の副総裁就任については一抹の不安がある。
内田氏は雨宮副総裁とともに量的・質的金融緩和政策の導入や強化に関わった「政策参謀」であり、マイナス金利政策やイールドカーブコントロール導入時の実務を取り仕切った(11日付日本経済新聞)。
はっきり言わせてもらえば、無制限毎営業日指値オペなどによって債券市場を機能不全に陥れた張本人でもある。もちろん黒田総裁の意向に沿った政策を行うために、やむを得ず?導入したものであったかもしれないが、少しやり過ぎた。
総裁として最有力候補の雨宮氏は総裁就任を辞退していた。これはこれまでの政策を取り仕切っていた人物が総裁になっても良いのかという疑問も要因であったと思う。同様の疑問が内田氏に残る。
ただし、政府としては急速な出口政策は望んでいないため、今回の人事案になったとも思われる。それでも特にイールドカーブコントロールの解除は待ったなしともいえる。それが果たしてできるのか。
さらに利上げそのものに慎重とみられる植田氏がマイナス金利政策の解除を行えるのか。これらはあくまで金融政策を正常に戻すだけなのだが、物価が4%のなかで、それすらも慎重にならざるを得ないというのが最大の懸念材料となる。