天安門事件当時の李鵬元首相死去に物言い?
「(私たちの要求は)責任者の刑事責任を追及することです。責任は3人にあると思っています。国を率い、軍を率いていたのは3人だったからです。国家主席だった楊尚昆,軍委員会主席だったトウ(漢字は登へんにおおざと)小平、そして国務院首相だった李鵬」
そう李鵬氏を名指しまでしたのは、1989年6月の天安門事件で、凶弾に倒れた18歳の学生の母、張先玲さん(87歳)である。天安門事件から30年を迎えようとする今年4月に話を聞いた際の言葉である。
その時点で、楊尚昆氏(1998年9月死去)、トウ小平氏(1997年2月死去)はすでに故人である。
「要求はとても簡単です。六四(=天安門事件)の真相、殺人が正しかったのか、なぜ、何人を殺したのかを公表し、立法して賠償、謝罪することです」
張さんが、刑事責任を追及したかった言わば、最後の「主犯」である李鵬氏も、その訴えに耳を傾けることはなく、22日死去した。
李鵬氏は、1989年6月、学生らの民主化要求を武力鎮圧した天安門事件当時の首相。党内保守派として、改革派の趙紫陽総書記と対立。学生デモへの強硬姿勢を主張した。
その天安門事件から今年はちょうど30年となる。それだけに李鵬氏の死に思うところのある関係者も多いだろう。
李鵬氏の死去を伝える国営新華社通信は、「1989年の政治騒乱の中で(中略)果断な措置を取り動乱を止め、反革命動乱を収め、党と国家の命運に関わる重大な闘争で重要な役割を発揮した」と讃えた。これは、天安門事件を武力鎮圧したことへの評価である。
この新華社の報道は、犠牲者の母や民主活動家が、学生ら名誉回復など事件の再評価を求めているにもかかわらず、今も中国共産党が、その立場を変える気がないことのメッセージでもある。
その中で、不思議なことが起きた。
李鵬氏死去が明らかになった翌日の中国共産党系の新聞「北京青年報」の一面が、同氏の死去を報じる文字の下に、赤い上着を着た若者が赤いバラの花束を受け渡す写真をデカデカと載せたのだ。さらに、その写真には「名誉が戻って来た」という意の説明までついている。まるで李鵬氏の悲報を、慶事と見まがうような紙面作りだ。これは、国際数学オリンピックで中国チームが4年ぶりにトップを奪還したというニュースの写真が、組み合わさってしまった“事故”だが、中国の新聞で普通このような“事故”は起きない。
ネット版では、これを見ることができない。この“事故”は、当時の学生デモへの対応に不満を持つ者が、確信的に起こしたものとの憶測が出ても不思議ではない。日増しに言論への抑制が強まっている中で、良心的なインテリたちのささやかな抵抗かもしれない。