Yahoo!ニュース

樋口尚文の千夜千本 第151夜「呪怨:呪いの家」(三宅唱監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(C)Netflix

社会派映画にこそ悪霊は宿る

ひょっとしたら映画館で上映されるあまたの作品より映画への愛情があるのではと感じさせ、また銀幕で上映されるおおかたの作品よりも挑戦的な企画を採用しているネットフリックスが『呪怨』の新作をテレビシリーズとして製作するというので、それなりの期待をしつつ配信早々に観た。とはいえ忙しいさなかだったので全六話をバラで観るはずだったのだが、これが止まらなくなってデスクから移動時からベッドまで(!)デバイスを変更しながら、その日じゅうに完走してしまった(なんとなく先に観た人の感想などをSNSなどで見てしまうのも避けたかったこともあるが)。

それほどに面白い理由をいざ書くとなるとなかなか難しいのだが、最近ある評論家がとある青春映画を観た感想として「まるで怪獣映画の、怪獣の出ないところばかりが続くような雰囲気が面白かった」と記していたのがヒントになりそうである。実は私もその青春映画にまるでそれに近い印象を抱いていたので、わが意を得たりだったのだが、この感想が面白いのは「青春映画」から全く別ジャンルの「怪獣映画」の雰囲気を読み取っていること、そのうえでさらに「怪獣映画」でみんなが目当てにしている怪獣の出ない場面で一本作り上げたとしていること、そしてまたそういう仕上がりを「面白い」と肯定していることだ。

これにあやかって言うなら、『呪怨:呪いの家』は「まるで社会派映画の、しかも事件の核心を外れた周縁ばかりが続くような雰囲気が面白かった」のである。そう言えばかつて日活ロマンポルノの傑作『わたしのSEX白書 絶頂度』(曾根中生監督)を「バンパイア映画」と積極的「誤読」をしてみせた評論家がいたが、ちょっとそういう感覚にも近いかもしれない。初期の『呪怨』にこういう感覚はなくて、いかにもホラー映画的な世界観のなかに加椰子と俊雄といういかにものオカルト的意匠をまとったキャラクターが出て来て直截に観る者を脅かす。彼らが悪霊と化した経緯も描かれはするが、あくまでホラー映画的な文脈なので、ごくごく安定したジャンル映画であった。

だが今回の『呪怨:呪いの家』は、あのなじみ深い怪談的なキャラクター、加椰子と俊雄も姿を見せないばかりか、いわゆるホラー映画的なお定まりの雰囲気は一切排除され、昭和末期から平成前期あたりまでの(最初の『呪怨』が始まる前夜の)社会を震撼させた陰惨な事件を年代記的にクロスさせながら、「社会派映画」のようにティーンエージャーの女子たちや若い夫婦たちにまつわる負の病根が描かれてゆく。これはなんというか、社会に共有された、または個人が秘かに抱える忌まわしき感情のオンパレード。そしてそこに浮かび上がる寂寥感や孤独感につけいるように、魔の家の悪霊が手を出してくる。この婉曲な憂鬱さがじゅうぶん怖いので、もういわゆるホラー映画やスプラッタ映画のお定まりのショッカー描写など全くなくてよいとさえ思われた(それでも分量は控えめだが)。『リング』『呪怨』を生んだ脚本の高橋洋と一瀬隆重のこうしたアプローチはひじょうに意欲的で意気揚々たる感じだ。

しかしよくよく観ていると、この脱臼した「社会派映画」のごとき顔つきは、決してSFを別の何かの映画に越境させようとした『アルファビル』的な発想ではなく、あくまでホラー映画として作品を実らせるためのプロセスなのだった。そこで思い出すのは、「社会派映画」的な顔つきで悪魔を浮き出させた『エクソシスト』で、あの作品が既成のホラー映画と一線を画したのは、まさにその視点の有無であった。『エクソシスト』でキリスト教的悪魔を体感させたのは、あの奇矯な立像ではなく、親子関係の孤独、人種迫害、老人の疎外などさまざまな「社会派映画」的側面への踏み込みであった。『ローズマリーの赤ちゃん』にはこういう表現の萌芽はあったものの、『エクソシスト』のフリードキンのように真っ向からリアリズムでのぞんで「憑き物」を感じさせるというアプローチはなく、実はリーガンの首が回ることよりも、その「社会派」ぶりが観客の深層でのショックの根拠だったはずだ。

そういう意味では、どちらかというと古式ゆかしい怪談映画のトーン・アンド・マナーで語られてきた『呪怨』ワールドが、このたび漸くにして『エクソシスト』的なリアリズムをもって再構築された、というのが本シリーズではないかと思う。その場合にホラー映画の手練れではない三宅唱監督を起用するというのは、ひじょうに理にかなったことだった。その種の映画の作法にとらわれたら、本シリーズはこれまでの作品の拡大再生産に終わったことだろう。ここまでの流れはひじょうに面白かったが、まだ物語は序破急の破に入ったばかりという感じがするので、シーズン2を刮目して待ちたいと思う。

「大人計画」的なフレーバーを脱ぎ捨てた不穏な匿名者的な荒川良々、きびきびと華のあるヒロインの黒島結菜、新星ではないが発掘感のある里々佳など、キャストもうまいはまり具合だった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

樋口尚文の最近の記事