ブラインドサッカー・黒田智成 故郷で誓った集大成への決意
故郷の人たちの温かい拍手がブラインドサッカーの黒田智成を優しく包んだ。
5月上旬に熊本を巡った聖火リレー。八代市の一区間を担ったのが、この土地で生まれ育った黒田(旧姓:田中)だ。小学1年のときに全盲になったが、テレビの『キャプテン翼』が好きで、地元の人たちはひとり壁打ちをする黒田をよく目にしたという。その後、盲学校を卒業。福岡の大学に進学し、筑波大学大学院時代にブラインドサッカーと出会い、無我夢中で球を追いかけた。初代日本代表にも名を連ね、実に約20年来、日本を代表するストライカーとして戦い続けている。
故郷への感謝を胸に
「八代の自然と人に育ててもらい、今の自分がある。地元の人たちに自分の活動を知ってもらう機会がなかなかなかったので、感謝の気持ちを伝えたかった。聖火ランナーという形で帰ってこられて、いろんな人に声をかけてもらってうれしかったです」
5年前の熊本地震、そして昨年の豪雨災害……遠く離れた東京で熊本に相次いだ災害のニュースを聞き、心を痛めた。何か自分にできることはないか。故郷への思いが胸に巡り、やがてブラインドサッカー選手として勝利を、ゴールをもたらすことが自分のできることだと考えるに至ったのは他の多くのアスリートと同じだろう。
そして、もうひとつ黒田の気持ちを奮い立たせてきたのがパラリンピック出場への思いだ。
パラリンピック出場は悲願だった
ブラインドサッカーが初めてパラリンピックに採用されたのは2004年アテネ大会。日本は2003年の第1回アジア視覚障害者サッカー大会で優勝したが、その大会は結果として公式国際大会に認定されず、パラリンピック予選にも認定されなかった。結局、アテネ大会にはアジアから韓国が出場した。
続く2008年北京大会の予選は4か国中4位に。「その前にアルゼンチンで開催された世界選手権も経験していたので、いけるんじゃないかという気持ちで(開催地の)韓国に乗り込んで行って。ただ僕自身、スピードと勢いだけでプレーしていたので、今思うとまだまだ未熟だったなと思います」
2012年ロンドン大会の出場権をかけたアジア選手権は仙台で開催された。宿敵・韓国には黒田も値千金のゴールを決めて勝利し、翌日に行われたイラン戦は「引き分けでもパラリンピック」という状況で前半を0-0で折り返したものの、後半に2点を許して涙をのんだ。「2010年ぐらいから、がむしゃらにスピードでかき回すのではなくて相手と駆け引きをするのが大事なんだなとわかるようになり、相手の裏を取ってプレーする意識が高まったこともあって国際大会でも点が獲れるようになった。海外相手でも、たまたま点が入るのではなく、自分の形をつくって点が入るようになった。でも、大会の2か月前に右膝の前十字靭帯を損傷してしまい、いいコンディションで戦えなかった心残りがすごくありました」
そして2016年リオ大会への切符をかけたアジア選手権。黒田は右膝の手術、約1年のリハビリという苦しい時期を乗り越えてピッチに帰ってきた。だが、日本は4位に終わり、上位2か国に与えられるパラリンピック出場権を逃した。
来たる東京大会、日本は開催国枠で初のパラリンピック出場が決まっている。
「世界トップレベルの視覚障がい者と競い合うことができる、そして、交流することができるパラリンピックは自分にとって大きな価値であり、モチベーションなんです」と言葉に力を込める黒田。
今から19年前の2002年5月、初代日本代表に名を連ねた黒田は2020年、パラリンピックが開催されれば、念願のパラリンピックのピッチを踏んでいただろう。しかし、大会は新型コロナウイルス感染症の影響で1年延期された。
できないこともできるように工夫するチャレンジ精神
現在42歳の黒田にとって体力面などで延期の影響が少なくないことは想像に難くない。それでも“日本代表のすべてを知る男”がパラリンピックへ挑戦を続けるのは、「今までブラインドサッカーに関わってきた人たちの夢を実現したい」という強い思いがあるからだ。
「これまでずっとブラインドサッカーを続けてきて、関わってくれたみんなの思いを形にすること、つまり結果を残すことがすごく大切だと思っているんです。聖火リレーは、パラリンピックでメダルを獲るんだという決意を胸に走りました。それに、こういう社会状況の中でパラリンピックをやるからには、やはりやってよかったと思っていただけるような大会にしなきゃいけないと思います。日本代表に選ばれたら、日本チームの一員としてメダル獲得に貢献したいです」
東京パラリンピックまであと100日を切った。オリンピック・パラリンピック開催を巡り、さまざまな議論がされているが、集大成のパラリンピックに夢をかける気持ちに変わりはない。
「先日、水泳のパラリンピアンでもある、日本パラリンピック委員会の河合純一委員長が『できないことに対してどうやったらできるかというのを考え、工夫して、それをやり続ける、挑戦し続ける姿を示すのがパラリンピックの大きな価値なんだ』と言っていて、本当にそうだなと思いました。自分自身、ただただサッカーをやりたくてどうやったらできるかというのを工夫してやり続けてきました。以来、20年にわたり挑戦を続けています。こんな社会情勢だからこそ、挑戦する姿を多くの人に見ていただくということがパラリンピックの一つの意義かなと思います」