樋口尚文の千夜千本 第118夜「1999年の夏休み デジタルリマスター版」(金子修介監督)
”萌え”の疼痛に満ちた「踏み絵」のごとき詩篇
衣食満ち足りて能天気なライトさが世の中をおおった1980年代半ば、日活ロマンポルノで監督デビューした金子修介の『宇野鴻一郎の濡れて打つ』を封切館で観た時は、かなり驚いた。この後、一般映画として公開された『みんなあげちゃう』も然りだが、71年に始まった日活ロマンポルノの監督たちが大勢としては純文学的な重さを志向していたのに対して、このあっけらかんとした軽快な弾けっぷりはちょっと「新人類」出現という感じであった。
いや、ただ軽みを挙げるのなら、日活ロマンポルノには従来の宇野鴻一郎原作の作品や海女シリーズのような戯作的な路線もたくさんあるわけだが、ちょっと金子作品はそういうのとは異質な軽さなのだった。言わばただ軽みを帯びているだけではなくて、時代的なライトさに画づくりのフェティッシュさが加わって、今にして思えば「2.5次元」的なけはいが充満していたのであった。金子監督はすでにテレビの『うる星やつら』の脚本も書いていたわけだが、文学的な先行世代の牙城と思った日活ロマンポルノからわれわれテレビ世代、アニメ世代に近い言語をもった作者が現れたという期待感が湧いた。
もちろん当時でいえば、撮影所出身ではない森田芳光監督の撮る画や編集も、既成の自然主義的リアリズムとは切れた、ややグラフィカルなものではあったが、あれが「映画的」ならぬ「映像的」なタッチだとすると、金子監督の初期作品はさらに「アニメ的」な域に入っていた(ロートルな評論家などからすると、もうこの雰囲気だけで受け付けなかったかもしれない)。そしてこのたび公開から30年(!)を経た『1999年の夏休み』のデジタルリマスター作業のチェック試写を金子監督、プロデューサーだった成田尚哉氏とともに観る機会があったのだが、その終映後に、成田氏が制作当時を思い出しながら「まだ”萌え”という概念がなかった時代のことだから、日活でダビングに入っている時などは”なんだかキモチ悪いことやってるなあ”という感じに見られてましたね」とおっしゃっていたのには、爆笑しつつも深く頷くばかりだった。
私がこの作品を観たのは、初公開時の1988年、今はなき築地松竹会館の地下にあったミニシアター・松竹シネサロンであったが、なにしろオトナになりたくない少年たちを美少女たちが演じ、声優が吹き替えをしている、という本作はしたたかに倒錯的なアヤシイ感じで、いいオトナの観客はあっけにとられていた。私たちの世代には萩尾望都の熱狂的なファンで、同人誌を作って長い「トーマの心臓」論を書いていたような同級生もいたので、こういう匂いの作品が生まれてきたことにはさして違和感はなかったけれども。だがそんな私にしても、この息苦しいまでの特異な世界観の濃密さにはいったい何だろうかと瞠目させられた。まさに本作も大きい意味では「アニメ的」な範疇で、まるで少女マンガが動き出したかのような特異な「様式」が全篇を占めていた。この普通のオヤジたちにとっては”なんだかキモチ悪いこと”の連続が、疼くほどの”萌え”と解せるかどうか、そんな世代を分断する「踏み絵」めいたところが本作にはあった。
さて、この少女マンガふうの「様式」を成立せしめることは実はそんなに容易なことではなくて、ただ単に「トーマの心臓」のような物語をなぞれば出来上がるものでもない。まずは、絵に描いたマンガならざる現実において、宮島依里を筆頭とする性別も年齢も超えた「あわい」の儚さを感じさせるキャスト。岸田理生の書いたリリカルで自己完結的な少年たちの台詞、そしてそれに忠実な少年たちのひとりごとめいた演技。少女たちの美少年ぶりを際立たせるコスチューム。世俗的な生々しさから切れた非現実的に美しい洋館のロケセット、サイバーパンクな装置、森と昆虫。それらを虚構的なトーンで結い合わせる高間賢治のフェティッシュで美しい映像。そして、本作の基調を決定づけている中村由利子の甘美な感傷に満ちたサウンドトラック。これらの要素が全て奇跡的に掛け合わさったところにはじめて、映画にあって(萩尾望都の読者も納得するであろうレベルの)「少女マンガ」的な「様式」が成立するわけである。
しかも本作は決して予算も潤沢ではなく、今やこの作品の代名詞となっている中村由利子の名サントラも、実は音楽費が乏しいためにアリモノの『風の鏡』という中村のアルバムの主要楽曲を引用した「選曲」の賜物だった。そういう諸条件のもと、さまざまな偶然と必然の絡むところにたゆみなく一定の方向性を与えて、ここまで”萌え”の感覚が横溢する異色篇に仕上げた金子演出は出色であり、以後の作品では類をみないほどの映像への粘着性、フェティシズムを感じさせる。いや実際、この後の金子演出は粘着より快調をむねとし、よどみなきストーリーテラーの名手として平成『ガメラ』シリーズや『デスノート』などのヒット作を連打することになる。
事ほどさように『1999年の夏休み』ほどにナルシスティックで、甘美で、濃密な自意識に満ちた作品は、金子監督のフィルモグラフィのなかで後にも先にも見出しがたく、そちらの方向での不意の突沸点だったという気がする。とすると、本作で自分のディレッタンティズムとは決別して、きっぱり職人的ストーリーテラーを以て任ずることになる金子修介の、これはケジメであり白鳥の歌であったのかもしれない。オトナになることを拒みつつ、その永遠を夢見る少年たちのように、当時32歳の金子監督の「映画の青春」もこれで終わったのかもしれず、そういう虚実ないまぜになった作品全体の儚さが、えも言われず蠱惑的な感傷にいざなう詩篇である。今回のデジタルリマスター版は、洋館の屋内の夜の光や森の緑が彩度を増し、いい意味でフィルムのアナログ感が担保されていてよかった(金子監督はさらに音声もリマスターしたい衝動に駆られると言っていたが、このモノラルの風味もまた抜き差しならない気がする)。
そういえば、スコットランドの親日ミュージシャン、モーマスのアルバム「ボイジャー」(1992)をかつて聴いていたら、ずばり「1999年の夏休み」(「SUMMER HOLIDAY 1999」)という曲で映画へのオマージュが捧げられているのだが、これも映画の”萌え”へのなるほどという感じの返歌になっていた。そんなモーマスが1960年生まれらしいので、どうやら”萌え”を肯定的に感受できるのは、この世代あたりからのようである。