【オウム裁判】「愛する人を守りたかった」~同居女性の証言
「私は平田を匿いました」ーオウム真理教の元幹部平田信被告と同居し、その逃亡生活を支えていた女性元信者B子さんが、弁護側証人として出廷。警察庁長官狙撃事件の犯人扱いされるのを恐れ、同事件が公訴時効を迎えるまで逃亡することや出頭の時期などを平田被告自身が決めた、と証言した。
その姿は衝立で隠され、傍聴席からは見えない。検察官席の横に座っていた仮谷さん拉致事件の被害者遺族の仮谷実さんによれば、白いフリルのついたブラウスに薄いグレーのカーディガン、黒のパンツという、質素ながらもきちんとした出で立ちだった、という。
身内という意識だからだろう、B子さんは被告人について敬称をつけずに「平田」と呼び、おおむね次のような証言を行った。
【B子さんが語る逃亡生活】
~長官狙撃事件にはアリバイあるが…~
平田とは、教団内で「ワーク」と呼ばれる仕事を一緒に行ったことで知り合った。地下鉄サリン事件が起きた後に強制捜査が始まると、電話で「できるなら一緒に来てほしい」と呼び出しがあり、高田馬場で落ち合った。その後、仙台に行き、東北の温泉宿を転々とした。支払いは平田が行ったが、教団から出ている金だと感じていた。当初は、平田が事件に関わっているとは知らず、逃走している意識はなかったが、報道で指名手配されていることを知った。
長官事件の犯人として名指しされている報道を見た。平田は、自分は犯人ではないと言い、事件当日は三重県の元信者である友人宅にいた、と説明した。でも、当時の風潮ではオウムの元信者が何を行っても信じてもらえないだろうから、時効が成立するまで逃げると平田は言った。
「(捕まれば)冤罪にされてしまうので、愛する人を守りたい気持ちで、時効までは私が守って逃亡を続けようと思いました」
その年の夏に名古屋で平田被告が林泰男死刑囚に会った際、女性が働いて一緒に寮に住んでいると聞いたのがヒントになって、寮付きの仕事を探した。まずは仙台で割烹料理店に就職して、そこの寮に入った。その後大阪に行き、最初は北区で居酒屋に勤め、その後東大阪市の整骨院で受付の助手として12年間働いた。
朝8時過ぎから夜の10時、11時までの勤務で、寮費などを引いた手取りは、月に平均11万円5000円ほど。他に、文具を作る内職を一緒にやったこともあった。お金の管理はすべて平田被告が行い、給料袋をそのまま手渡していたので、教団からもらった金がいくら残っているなどということは知らなかった。
家事は買い物以外は平田被告がやっていたが、自分が勤めに出ている日中は、生活音がしないよう、トイレの水も流さないように気をつけていた。自分がいない間は読書したり、インターネットをやったり、軽いトレーニングをしたり、10年ほど前にウサギを飼うようになってからは世話をしていた。本の多くは、自分が図書館で借りてきた。ウサギは、2人にとって子供のような存在だった。
~計画は事前に知らなかった、と~
平田が特に悩みを漏らすことはなかったが、夜中にうなされて汗びっしょりになっていることはあった。職場に泥棒が入って従業員全員が指紋を採取された時などに、「出頭してしまおうか」と話し合ったこともあるが、できなかった。
平田は、オウムの修行をすることもなく、帰依の気持ちもなくなっていたと思う。私も、教祖の裁判での態度を(報道で)見て、幻滅した。
関わった事件については、平田から何度か話を聞いた。仮谷さんの事件は、中村昇、井上嘉浩両元幹部から「車の運転をしてくれ」と指示されただけで、現場で井上幹部の部下の共犯者に聞いても「知らないなら知らない方がいいよ」と教えてもらえなかった、とのことだった。現場では、平田の前にあった車に年輩の男性が押し込められるのを見た。その後、教団施設で男性が亡くなったことを知らされてショックを受けた、と聞いた。
長官狙撃事件は、2010年3月30日に公訴時効が成立した。しかし平田は、時効成立後にも「ウサギを看取らせてくれ。それから出頭する」と言った。自分も承知した。
「私は強く出頭を勧められなかった。彼と離れるのが辛かったので、彼の言う通りにしました」
2011年3月の東日本大震災が、出頭したきっかけ。ひどい惨状を見て、何も非のない方が大勢なくなっていることに不条理を感じたが、それがオウムの被害者の方々と重なって、けじめをつける時期だと考えるようになった。
~唯一の写真は古い免許証~
ウサギは2011年8月13日に死亡。その後、すぐに出頭しなかったのは、私がショックを受けて、気持ちが不安定になっていたので、落ち着いてから話そうとしてくれたんだと思う。具体的に、12月31日に出頭すると話を聞いたのは11月13日前後。平田は捨てるものと残すものとを分けるなど準備を始めた。(捨てるものとして)免許証があったが、平田の写真として残っているものはそれだけだったので、私がもらった。
自転車を買い、平田はそれで本町駅まで行き、そこから電車に乗った。私は本町で見送った。
その後、平田に接見した弁護士から、私が捕まってしまうのではないかと平田が心配している、との電話があり、私も自首しようと決めた。
「私は自分を恥じます」
B子さんは犯人蔵匿罪で懲役1年2月の実刑判決を受け、満期出所後、製造業のパートで働いている。逃走中は絶っていた家族との連絡も復活し、正月も一緒に過ごした、という。
平田被告の今後について、B子さんは時々涙声になっりながら、次のように語った。
「献身的にまじめに仕事をする姿勢があり、人の信頼関係は築いていけると思う。オウム信者だったものには、服役より厳しい現実があることを受け止めて、社会に受け入れてもらえるよう、懸命にやっていって欲しいと心から思います。私は(出所まで)待ちます」
「面会や文通などができれば、精神面で支えていきたいと思います」
「社会に貢献することが本当のつぐないと思っています。仕事に就いて、自立して欲しい」
B子さんは、自分が長い間平田被告を匿っていたことについて、遺族の仮谷実さんに対して、次のように謝罪した。
「もっと早くに出頭して償っていこう、と言えたのは、唯一そばにいた私だった。自分かわいさに、それができませんでした。被害者、ご遺族の方々が一生懸命、必死に生きておられる姿と比べると、私は自分を恥じます。謝罪させてください」
B子さんは立ち上がろうとしたようで、裁判長が「そのままで」と制した。
「本当に申し訳ありません」
この時、B子さんは仮谷さんの方に、深々と頭を下げた、という。仮谷さんも、丁寧に答礼した。
気持ちが揺らいだり、感情があふれ出てしないように、というためだろうか、仮谷さんによれば、B子さんは最後まで、意識的に平田被告の方は見ないようにしている様子だった。声は小さく、時に涙声にはなったものの、最後まで落ち着いて証言を行った。
長期の逃亡は「冤罪」の恐怖だけか?
警視庁公安部は、長官狙撃事件について、いつまでもオウム真理教犯行説にこだわり、それ以外の可能性をきちんと調べなかった。マスメディアでも警察の見方に沿った報道が盛んになされた。オウムでは、警察による「弾圧」がさんざん語られていたうえ、地下鉄サリン事件の後は、教団関係者に対する社会の目は極めて厳しかった。そういうことが相まって、平田被告の逃走の大きな動機になったことは理解できるような気がする。
この事件は、犯行の態様が他のオウム事件とは明らかに違っていた。にも関わらず、オウム以外の可能性についてきちんと捜査しなかった警察、オウム犯人説の情報を流し続けたメディアは、平田被告の逃走にもいくばくかの責任を感じるべきだろう。
とはいえ、逃走が長期にわたった理由は、それだけではないのではないか。
検察官が反対尋問で指摘したように、警察は2004年にオウム関係者を同事件で逮捕したが、東京地検が不起訴としている。検察は、警察の暴走を止められはしなかったものの、裁判に持ち込んで冤罪を作るような事態にはしなかった。また、オウム事件で起訴された信者・元信者で、いわゆる冤罪と呼べるようなものについては、B子さん自身も「なかった」と認めている。事件直後ならともかく、教団関係者の不起訴が決まった2004年9月以降は、この件で「冤罪にされる」可能性は、それほど現実的とはいえなかったのではないか。
平田被告自身は「冤罪にされる」の可能性を、いつまで、どの程度現実的なものとして考えていたのだろうか。途中からは、「冤罪」の恐怖より、献身的なB子さんとの生活を絶ちがたかったからなのではないか、という疑問も湧く。「時効まで」と言っていたはずが、時効が成立すると「ウサギの死を待って」と先延ばしにし、実際に出頭したのはその4ヶ月半後。その間、出頭しなくてはという気持ちと、B子さんとの生活を一日でも長く送っていたい思いの間でせめぎ合いがあったのかもしれない。
緊張感のある毎日とはいえ、大切な人との生活には、ささやかな喜びもあったろう。そうして日々の暮らしがどれほど大切で愛おしいものかを実感した時に、被害者や家族からそれを奪ってしまう事件に加担した自らの罪を、彼はどう感じたのだろうか。
己の弱さや身勝手さも直視したうえで、近々行われる被告人質問で、そうした事柄についても、彼が自分の言葉で、率直に語ることを期待したい。