日本が手放した「教養」教育 旧制台北高校百周年で再認識する教養の価値
今年9月に刊行された韓国発の翻訳書『教養としての「ラテン語の授業」』がAmazonでベストセラー1位となり、大きな話題を呼んでいる。ここ数年、教養やリベラルアーツ、あるいは古典や歴史の価値が再認識され始めるなかでの、決定的な出来事に映る。
かつて、日本でも教養やリベラルアーツを重視した教育の行われた時代があった。戦後の教育制度改革で消えた「旧制高等学校」である。
台湾にも1922〜1946年の間、旧制高等学校が学び舎として存在していた。
式典で明かされたあの頃
10月21日、台湾師範大学で「旧制台北高校100周年記念フォーラム」が開催された。会場には朝から、台北高等学校にゆかりのある人たちが三三五五、集まった。
旧制台北高校と師範大学は、同じ場所にあった教育機関である。戦前から戦後にかけて政治体制が大きく変わり、制度は異なるものの、戦前の赤煉瓦造りの建物が今なお学生たちに使用され、引き継がれている。2018年、師範大学の校務会議で同校の前身は1922年に創設された台北高等学校に遡ることが決議され、以来、1922年が起点とされた。
この日の会場は、台北高校時代に講堂として用いられたホールだ。式典冒頭、師範大学学長の呉正己氏はじめ各界からのお祝いの言葉に始まり、100周年記念映像や卒業生、当時の教師や卒業生の家族が次々と登壇し、祝賀の言葉と共に当時の思い出を披露した。
この場に日本から参加したのが1927(昭和2)年台中生まれで、1946(昭和21)年に同校を卒業した川平朝清氏である。川平氏は、ラジオパーソナリティーのジョン・カビラ、スポーツキャスターの川平慈英両氏の父。録画映像を通じ、御子息らよりほんの少し高めの声で、創立当初の史料をひも解くと同時に、自身の思い出を披露してくれた。
クラス担任で英語教師だった山地清氏(1907-没年不詳)から教わった教科書とは別に渡された冊子で、「一番大事なのは発音だ」として「la」や「th」の音が日本語といかに違うか指導を受けた。ドイツ語教師の石本岩根氏(1903-1977)は、ゲーテの代表作「ファウスト」の一節や、レコードを使って授業していた。川平氏はベートーヴェン「交響曲第九番」合唱やシューベルト「野ばら」の一節をドイツ語で口ずさんだ。
「台北高等学校の外国語教育は素晴らしかったと思います。その伝統は95歳になった今も忘れることはありません。学問は、これからも私の生きている限り、私の脳裏の中に残ることと思います」
旧制台北高等学校とは?
日本統治時代の台湾では、初期段階から各地での学校建設が進められた。それまであった「書房」といわれる漢文教育の場は、国語教育、日本語教育を行う小学校、公学校へと取って代わり、次第に上級学校も設置されていく。
戦前の日本では、高い教養を身につけたエリートを養成する場として全国34校の旧制高等学校が設けられた。「たいほく」と呼ばれた当時の台北には1922年に「臺灣総督府高等学校」が設立、1927年に「臺北高等学校」と改称、以来1946年の閉校まで約2,600人が卒業した。このうち、日本や台湾の各界で活躍した人物の名前と業績のごく一部を列挙してみる(五十音順、敬称略、代表的な業績)。
有馬元治(衆議院議員)、王育徳(台湾語学者)、川崎寛治(衆議院議員)、辜寬敏(総統府資政)、辜振甫(実業家、台湾証券取引所初代所長)、邱永漢(作家、実業家)、黃伯超(台湾大学医学院院長)、国分直一(民族学者)、園部逸夫(最高裁判所判事)、戴炎輝(司法院院長)、張有忠(弁護士)、楊基銓(経済部次長)、李登輝(中華民国総統)。
高等学校入学者は、エスカレーター式に帝国大学への進学が約束された。台湾にも台北帝国大学が1928(昭和3)年に設置されたが、台北高校卒業生は、いわゆる内地の帝国大学への進学を希望する者が多かったという。一般的に帝国大学への進学はすなわち、官僚への道のりでもあり、将来を約束されたコースだった。結果、政財界、文壇に研究者、果ては総統まで出している。
進学は台北帝国大学よりも難関、「台湾で最難関の学校」とされるほど難しいものだった。とりわけ台湾人にとっての難易度は、日本人の比ではなかった。たとえばこんな数字がある。
単純比較だが、1942年時点での人口は台湾人が日本人の15倍以上いたにもかかわらず、累計の卒業者数は日本人が3倍以上である。昭和19年だけでも差は歴然だが、かろうじて入学以降の差別はなかった、といわれる。その雰囲気を作り出したのは、校風だった。
式典で、伯父・王育霖氏(1919-1947)、父・王育徳氏(1924-1985)の家族としてあいさつに立った王明理さんは、次のよう述べた。
「狭き門から入った学生たちは、一流の学問と深い教養を身につけてそれを生涯、自分の柱として人生を歩んで参りました。特に台北高校で特徴的だったのは『自由と自治』というモットーでした。戦争の時代でも、自由と自治は守られました。また、日本人と台湾人の分け隔てもありませんでした。私が思うに、自由とは自分で進む道を決められることであり、自治とはそのことに対して自分で責任を持つことだと思います。教師が学生を信じていなければ、できることではありません」
このモットー「自由と自治」を掲げたのは、アメリカのイェール大学でリベラルアーツを学んで帰国した同校第二代校長の三澤糾氏(1878-1942)である。本来は法令で定められた学生指導役に対して学生からの抗議が続き、全教員がその仕事を担うことで廃止した、というエピソードが明らかになっている。また、校内では『台高』『翔風』といった校内誌が、教員参加の下で制作されていた一方、教員が関与せずクラス内で回覧する雑誌も複数刊行されていた。
現在のようなSNSがない時代、紙の印刷媒体による相互コミュニケーションの場が活発に設けられていた。それらは自由な言論空間だった。
記録の掘り起こしから生まれる創作
その言論空間は、卒業後も引き継がれた。日本と台湾双方に設けられた同窓会はその代表である。日本側では、1950年代から少数での集まりを経て、1960年に同窓会「蕉葉会」なる組織ができ、会報の発行を開始した。今回の式典の席上、1969年の初渡台以来、台湾研究を続ける河原功氏によって会報誌『蕉葉会報』が日本で復刻されたことが伝えられた。
実は2012年に復刻された校内誌『翔風』は創刊号だけが欠けていた。というのも、くだんの三澤校長の代に創刊されたが、不十分とされて刊行が見送られ、お蔵入りになったという。ところが2015年に偶然、河原氏が古本屋の目録で発見し、このたび総目録付きで「幻の創刊号」が刊行される運びとなった。
『台高』『翔風』が校内の話題や個人の考えが中心だったのに対し、『蕉葉会報』は戦後の歩みにつながる内容だ。卒業生が何を考え、台湾社会や日本社会でどのような道を歩み、台北高校での学びをどのように生かしたのかを知る手がかりとなるだろう。
また、台北高校にまつわるさまざまな歴史の記録は、創作へと発展している。今回の記念式典では、これまでの歴史的な記録をベースにした歴史コミックとして『芭蕉的芽』『蕉兵戰時記』の刊行が伝えられた。こうした物語化による歴史の伝承ができるのは、やはり記録がしっかり残されてこそ、である。
戦後の台湾社会に生きた教養
教養やリベラルアーツが再認識される一方で、日本では依然として過去の蓄積や歴史を、どこか無用の長物と軽視する風潮がある。年号と出来事を覚えるだけを歴史と言うのであれば、確かに有用とは言い難い。だが、歴史を学ぶ際に重要なのは、国家や人はどのようにして過ちを犯したのかを知り、それを繰り返すことなく、前進させるためではないか。
台湾で「台湾史」を冠した研究科が設置されるようになったのは、2000年代に入ってからのことだ。台湾史研究に求められる言語知識をとってみても、中国語、台湾語、英語、台湾先住民族語、日本語と多岐に渡る。例えば日本統治時代の公文書は、旧仮名遣いで漢文読み下しから古文の知識も求められる日本語が中心だが、現代の学校で学ぶのは中国語だ。そのため、研究の前に言語理解や習得が求められ、ハードルは格段に高い。さらに、台湾で「日本語世代」と呼ばれる日本式教育を受けた世代は卒寿を越えている。そうした環境下で旧制高等学校の存在に焦点をあてた研究が続けられ、多数の人材が戦後の台湾社会で重要なポジションを担っていたとわかってきた。
卒業生は、戦争という混迷の時代と社会を生き抜いてきた。今また、誰も予測できなかった戦争の時代にいる。近年、教養やリベラルアーツが見直されているのは、混迷の世界や社会と向き合う力が求められているからではないか——教養を学んだ誇らしげな様子を見ているうちに、その羅針盤の存在が大きく感じられた。