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現代に通じる激動の時代を生きた巨匠アングル。パリ郊外シャンティーイに展開する圧倒的な美の世界

鈴木春恵パリ在住ジャーナリスト
ルーヴル美術館所蔵の名画も今回の展覧会に。(写真はすべて筆者撮影)

パリの北、普通列車で25分ほどのところに位置するシャンティーイ。美しい城、そして華やかな競馬が開催されることでも有名ですが、ここで今、注目の展覧会が開かれています。

「INGRES, L’ARTISTE ET SES PRINCES(アングル:芸術家と彼のプリンスたち)」と題されたこの展覧会は、フランス新古典主義絵画の巨匠、ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780-1867)の世界観を凝縮したような、とても興味深い内容になっています。

シャンティーイという場所と展覧会の魅力はこちらの動画でも紹介していますので、どうぞご覧ください。

19世紀フランス絵画界の巨匠

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルはフランス南西部の生まれで、11歳でトゥールーズの美術学校に入り、17歳でパリへ。「ナポレオンの戴冠」(ルーヴル美術館所蔵)を描いたダヴィッドに学び、21歳の時に芸術家の登竜門「ローマ賞」に輝きました。

そのごほうびとしてイタリアに留学。留学期間が過ぎてもイタリアに滞在し、ラファエロ、ミケランジェロの作品を研究。現地で制作した作品は母国にも送られ、高い評価を受けていました。壮年期にはローマのフランスアカデミーの院長に就任しているほどですから、文字通り、画壇の王道を歩んだ大巨匠です。

彼の作品は、ルーヴル美術館をはじめ、世界各地の有名美術館の主要作品になっています。そしてこの展覧会では、そうした名画の数々が一堂に会しています。

半世紀かけて一枚の絵を完成させる

展覧会ポスターにもなっている、24歳の時の自画像。この作品は、彼の制作スタイルを象徴しています。というのも、24歳の時に描きはじめたのですが、この絵が完成したのはアングルが70代になっていた時。つまり、50年もの時間をかけて一枚の絵を完成させているのです。

24歳の自画像。けれどもこのような状態に完成したのは、アングル70代のとき。
24歳の自画像。けれどもこのような状態に完成したのは、アングル70代のとき。

面白い点として、彼が50年にわたって手を加えたこの絵の様子を他の画家が模写していた作品によって知ることができます。その変化というより、昇華といった方が良いような変遷は、アングルの飽くなき理想の追求、完璧主義者という特徴をまざまざと見せてくれます。

Julie Forestierが1807年にアングルの自画像を模写していた作品。24歳のアングルの自画像は最初はこのような構図だったことがわかる。
Julie Forestierが1807年にアングルの自画像を模写していた作品。24歳のアングルの自画像は最初はこのような構図だったことがわかる。

年齢とともに円熟味を増す作品

同じテーマで複数の作品を制作していたアングル。ダンテの「神曲」から、フランチェスカが夫の弟と不倫している場面を描いた「パオロとフランチェスカ」は、7つのヴァージョンがあるのですが、アングルが30代で描いたもの、そして70代で描いたものを同時に並列して鑑賞できるのもとても面白いところです。

筆者がどちらか好きな方を選ぶとしたら、70代の時の作品の方に惹かれます。30代の時に描いた劇場の舞台を一枚の絵に表現したような作品もとても魅力的ですが、70代の作品では、背景を思い切って省いたことでよりインパクトのある作品になっていると感じます。

「パオロとフランチェスカ」(1814ー1820)。アングル30代の作品では、背景に嫉妬のために剣を抜こうとしている夫の姿がある。
「パオロとフランチェスカ」(1814ー1820)。アングル30代の作品では、背景に嫉妬のために剣を抜こうとしている夫の姿がある。

「パオロとフランチェスカ」(1855ー1860年頃)。70代後半のアングルが描いたヴァージョン。フランチェスカの表情、手から滑り落ちる本の表現などがとても魅力的だ。
「パオロとフランチェスカ」(1855ー1860年頃)。70代後半のアングルが描いたヴァージョン。フランチェスカの表情、手から滑り落ちる本の表現などがとても魅力的だ。

展覧会の中盤、そして終盤でも名作が目白押し。普段はルーヴルやオルセーにある作品も、この会場では鑑賞者との距離感がとても近く、しかも比較的空いているので、まるで独り占めしたかのような親密感で絵の細部までゆっくりと堪能することができます。

新しい時代との葛藤

フランス画壇の大巨匠アングル、ではあるのですが、私は、彼が現代に生きる我々と共通する苦悩を抱えながら生きていたと思えてなりません。

彼が生きたのは日本でいえば江戸後期、フランスでは革命、ナポレオンの天下と失脚、王政復古、第二帝政と続く激動の時代です。タイトルに「プリンスたち」とあるのは、アングル作品の注文主、購買者、メセナがその時代の権力者たちだったことに由来するもので、彼らの肖像画も数多く制作しました。

歴史にもしもがあれば、フランス王になっていたかもしれないオルレアン公の肖像画3点。人物像は写真のように同一で、背景を描き分けているところが面白い。公はアングルのメセナ的人物だった。
歴史にもしもがあれば、フランス王になっていたかもしれないオルレアン公の肖像画3点。人物像は写真のように同一で、背景を描き分けているところが面白い。公はアングルのメセナ的人物だった。

一方で、絵画史においては、ドラクロワらに代表されるロマン主義が台頭。さらにバルビゾン派という次の時代への大きな潮流が生まれていました。それより何より、絵画を脅かす新しい脅威が出現したのです。写真です。

画像を定着させる写真技術は19世紀前半にフランス、イギリスでほぼ同時に複数の発明がなされ、世に広まりました。その技術が何に利用されたか?

その最たるものが肖像写真です。つまり、これまで絵で残していたものを写真で、という時代が来たのです。

ウィキペディアでアングルのページを開くと、彼の肖像写真が載っています。彼自身、写真によっても自分の姿を残していました。けれども、写真の普及は画家、とりわけ肖像画家の仕事を奪うことは明白。その使用を禁止するように政府に求めたという記述もあるように、人や物をリアルに描くという点において、写真の登場は時代の価値観を変えてしまう革命でした。

この時のアングルの気持ちに、現代の私たちは大いに共感するのではないでしょうか? 電気の登場でガス灯の点火人が職業を奪われたように、現代の多くの職業が生成AIにとって変わられるのは、もはや抗いがたい時代の流れのように思えます。

そんな思いを重ねながら、展覧会を巡ると、様々なことを考えさせられます。匠の技と言えるくらいにリアルな表現であるという以上の美しさ。何十年もかけて完成させた一枚、同じテーマに何度も取り組み、ヴァージョンアップさせてきたこと。巨匠といえども、決して平坦な道ではなかったはずの、その時代最高の技、美というものには、やはり100年後の人にも訴えかけるものがあります。

「ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像」(1845)。ニューヨークのフリックコレクション所蔵の主要作品もこの展覧会に来ている。
「ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像」(1845)。ニューヨークのフリックコレクション所蔵の主要作品もこの展覧会に来ている。

大巨匠アングルの葛藤と飽くなき探究心、晩年になっても色褪せない制作意欲。高度な完成度の作品の背景にある時代のうねりまでも見えてきそうな展覧会です。会期は2023年10月1日まで。機会のある方はぜひ、シャンティーイという特別な空気感の中で壮大なる芸術の世界を堪能してみてはいかがでしょうか。

パリ在住ジャーナリスト

出版社できもの雑誌の編集にたずさわったのち、1998年渡仏。パリを基点に、フランスをはじめヨーロッパの風土、文化、暮らしをテーマに取材し、雑誌、インターネットメディアのほか、Youtubeチャンネル ( Paris Promenade)でも紹介している。

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