これが戦争の爪痕、背筋がシャンと伸びるような舞台。こまつ座『闇に咲く花』
8月4日より紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYAにて上演中の、こまつ座『闇に咲く花』は戦後を生き抜く人々の逞しさと、決して忘れてはならない戦争の爪痕を両面から描く。久しぶりに井上ひさしワールドに触れて頭をガツンとやられたような、背筋がシャンとしたような気分にさせられるような作品だった。
初演は1987年、今回は11年ぶり6度目の再演となる。演出を栗山民也が担当する。(以下、ネタばれあり)
舞台は終戦後間もない東京・神田の小さな神社。そこでは、宮司である牛木公麿(山西惇)と近所に住む戦争未亡人たちが、闇商売で逞しく食料を手に入れつつ、明るく生きていた。近くの交番の鈴木巡査(尾上寛之)までもその輪に巻き込まれていく。たとえ自分たちの生活が苦しくても、神社の捨て子を見殺しにすることはできない優しい人たちだった。
そこに思いがけず嬉しいニュースが飛び込んでくる。戦死したとされていた牛木の一人息子・健太郎(松下洸平)が生きて帰ってきたのだ。健太郎は一時、記憶を失っていたため、自分が生きていることを知らせることができなかったのだという。かつて野球のエース投手であった健太郎に周囲の人たちはプロ野球での活躍を期待し、神社は喜びに包まれた。
ところが、GHQ法務局主任雇員の諏訪三郎なる人物(田中茂弘)が健太郎の元を訪ねてきて、事態は急転する。健太郎は戦地のグアムでC級戦犯としての裁きを受けねばならないというのだ。グアムで健太郎は現地の人たちと野球に興じ、ボールをぶつけて脳震盪を起こさせたことがあった。それが罪に問われるという。ショックのあまり健太郎は再び記憶を失ってしまう。
記憶がなければと裁判も受けられないから、そのままでいて欲しいと周囲の人たちは願う。だが、かつての野球仲間でもある精神科医の稲垣善治(浅利陽介)は健太郎の記憶を呼び戻そうと懸命に努力する。そして再び記憶を取り戻した時、健太郎はかつての野球仲間たちの非業の死を知り、無意識のうちに戦争の後押しをしていた父を糾弾するのだった。そこには一連の動きを執拗に追い続ける諏訪の姿があった…。
闇市がはびこる時代に生きる人たちのしたたかさ。知らぬ間に権力におもねり、同じ方向を向いてしまう人々の愚かさ。理不尽とも思える理由で戦犯として裁かれていく兵士たち。普通の人々にとっての「戦争」とは如何なるものであったのかが、あらゆる方向から描かれる。ギター弾きの加藤さん(水村直也)が劇中ずっと奏で続ける音色が時に優しく、時に哀しく響く。
山西惇演じる牛木公麿が、優しさもずる賢さも愚かさも全て併せ持って実に人間臭い。松下洸平が、記憶を失ってしまうという難しい役どころを爽やかに熱演していた。
健太郎の最終的な「覚悟」とはいかなるものだったのだろう? 人は色んなことを都合良く忘れながら生きていくもの…だけど「忘れる」ということは時に罪なのだということを考えさせられる物語である。
救いは、登場人物の中には誰一人として根っからの悪人はいないことだ。皆、心根は善良な人ばかりである(諏訪三郎でさえも)。だが、そういう人たちの何気ない行為の積み重ねがあの戦争を推進したのだということも、この作品は冷静に描いている。
「ああ、これが戦争であったのだ」と思い起こさせてくれる。これが演劇の力ではないだろうか。そして、日々をぼんやりと過ごしている私たちは、時おりそういう思いをして目を覚ますことが必要なものではないだろうか。そんなことを考えさせられる舞台だった。