平清盛の先祖にあたる平維衡は、なぜ藤原道長から伊勢守就任を拒否されたのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、平維衡の人事を巡り藤原道長が反対するなど、大きな問題になっていたが、どういう背景があったのか、考えることにしよう。
平維衡は、平将門の乱を鎮圧した貞盛の子で、伊勢平氏の祖でもあった。つまり、平清盛の先祖である。ただし、残念ながら生没年不詳である。維衡は上総、常陸、下野など東国で受領を歴任した。
維衡は、源満仲、源満正、源頼光、平致頼とともに「天下之一物」として並び称されたほどの人物である。その後、伊勢に進出したが、長徳4年(998)に同族の平致頼と抗争を繰り広げたのである。
その結果、朝廷は2人を京都に召喚し、維衡を淡路への流罪としたが、位階はそのままだった。一方の致頼は位階を剥奪されたうえで、隠岐へと流されたのである。致頼の罪が重かったのは、先に戦いを仕掛けたとみなされたからだった。
それから維衡は、罪を許されて召喚された。寛弘3年(1006)の除目において、右大臣の藤原顕光が維衡を伊勢守に推挙した。顕光は兼通の長男だったが、あまり冴えない人物でもあった。
この人事案に敢然として反対したのが、藤原道長である。理由は先述したとおり、維衡が致頼と伊勢国で闘争に至ったからである。そのような事情で、この人事は撤回されたかに思えた。
しかし、どのような事情があったのか不明であるが、維衡を伊勢守とした状態で人事が奏上されてしまい、一条天皇がこれを裁可したのである。
一条天皇が裁可したので、今さら修正して維衡の人事を撤回することはできなくなった。それから約2ヵ月後、道長により、維衡は伊勢守を解任されたのである。
以降も、伊勢国においては、維衡の子・正輔と致頼の子・致経が争いを続けた。治安元年(1021)、致経は前年に起こした殺人事件が露見し、捕縛されたうえ解官されたという。その後、伊勢国では維衡の子孫が勢力を伸長し、清盛へとつながったのである。