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北朝鮮に帰った「在日」はどのように生き、死んだのか(4)70年代に帰国した女子高生×さんの場合

石丸次郎アジアプレス大阪事務所代表
70年代に北朝鮮で生まれた帰国者二世のパク・ミオクさん(撮影 石丸次郎)

1959年に始まった在日朝鮮人の帰国事業では、25年間に9万3340人が北朝鮮に渡った。連載の4回目は、70年代に帰国した若い世代のお話。ピンクレディーが好きで喫茶店に通った女子高生の帰国者は、北朝鮮でどんな暮らしをしていたのか。

■<サイキンキコクシャ>はバカだ

×さんは、1970年代に〇〇朝鮮高校在学中に一家で咸鏡北道に帰国した。もうとっくに「在日」の帰国のピークは過ぎていたが、体を悪くしていた父が、祖国で温泉治療ができると、朝鮮総連に勧められて帰国船に乗ることを決めたという。

「私は友達と別れることが寂しいぐらいにしか考えていませんでした。到着した清津で配置が決まるまで待機する招待所に、知人探しや荷物受け取りのためにやってきた帰国者たちが、『なんで今頃帰って来たのか? 朝鮮の暮らしが厳しいこと聞かなかったのか? 』と口々に言うんです。その後も、60年代の帰国者たちから『あんたたち<サイキンキコクシャ>はバカだ。なぜ日本の暮らし捨てて貧しい朝鮮にわざわざ来たのか』と何回言われたことか…」

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動画 香川県出身で北朝鮮で困窮生活送る日本人妻を秘密撮影

■自ら人身売買ブローカーに身を委ねる

×さんは、酒飲みで暴力を振るう帰国者の夫と離婚。90年代の混乱の中で子供2人を抱えての暮らしに限界を覚え、99年、日本の親戚に直接支援を請うために中国に一時的に越境することにした。国境を越えるには国境警備隊に賄賂を払い、中国側のブローカーにも金を払って安全を担保しなければならない。

しかし、そんな渡河費用を払う金などなく、結局自ら人身売買ブローカーに身を委ね、中国人の男性のもとに「嫁ぐ」ことになった。「逃げ出してまた朝鮮に戻ればいい」、×さんはそう考えていたという。ところが、中国で「転売」されたり、うまく日本に連絡が取れないまま一年が過ぎ、ついに公安に逮捕されて北朝鮮に送還されてしまった。

「取り調べをした保衛部員(秘密警察)が優しい人で、『せっかく中国に出られたのに捕まってどうする。次は失敗せず日本に行け』と言われました」

という。

一カ月ほどで釈放され自由の身になると、×さんはすぐに中国行を考える。この時の彼女の回想が忘れられない。

「誰か私を買ってくれないだろうかと考え、すぐに越境ブローカーを訪ねました。中国の実情を知ったら、もう貧しい朝鮮では暮らせないんです」

中国から連絡がついた日本の親戚が奔走して、×さんは10数年前に日本入りした。その後、子供二人を脱北させ関東地方で暮らしている。

<サイキンキコクシャ>の×さんは筆者と同世代である。朝高生時代の思い出を尋ねると、ピンクレディーが大人気だったこと、大人ぶって友人と喫茶店に出入りしたことを、懐かしそうに語ったことが印象的だった。

脱北者として初めて日本の大学を卒業したリ・ハナさん。帰国者2世だ。写真キム・ヘリム
脱北者として初めて日本の大学を卒業したリ・ハナさん。帰国者2世だ。写真キム・ヘリム

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■金正恩時代に入っての帰国者

2011年12月に金正日氏が世を去り金正恩時代が始まった。この頃から「帰国一世」が脱北して来ることはほとんどなくなっている。

金正恩政権が統制を強化したため中国国境への移動がきわめて難しくなったこと、「帰国一世」が高齢化したことがその理由である。現在日本には、約200人の脱北した帰国者がひっそりと暮らしている。最近入国して来た人のほとんどは二世だ。最近では、二世が北朝鮮に残してきた子供たち=三世を連れ出すことに頭を悩ませている。 

この連載一回目の冒頭で、韓国から電話をかけてきた帰国者男性のことに触れたが、筆者にできることなど限られていて、北朝鮮にいる家族に安否を尋ねる手紙を代筆したり、お金や荷物を代わって送ることぐらいである(韓国からは手紙も荷物も送れない)。脱北を手伝うなど不可能だ。

今気になっているのは、日本入りした帰国者たちの将来のことだ。韓国と違って定着支援制度がなく、日本語習得、進学、就職で壁にぶつかる人が多い。60歳以上の大半は生活保護を受けている。

手助けする人が必要だが支援者は少なく、帰国者約150人が住む東京では、まったくケアを受けられないまま放置状態の人が多い。北朝鮮の評判の悪さ、ヘイト活動の横行などのため、ほとんどが北朝鮮から来たことを隠して生きている。

■「在日」の6.5人に1人が北朝鮮へ

帰国事業で北朝鮮に渡った「在日」は9万3000人余り(日本人妻など日本国籍者を含む)。当時の在日人口の6・5人に1人にも及ぶ。彼・彼女らが北の祖国で送った人生も、在日朝鮮人史の中に刻まれなければならないはずだが、圧倒的な高い壁に阻まれて、その生はほとんど不可視のまま闇に埋もれて伝わってこない。

帰国者が、北朝鮮でどんな思いで、どのように生き、死んでいったのか、知りたい、光を当てたいと考えて朝中国境に通ってきたが、記録をまとめるには、筆者にはまったく力不足だ。

日本と韓国に逃れて来た帰国一世は、合わせて300人程度いると推定している。帰国者は、半世紀あまり前に日本社会がこぞって背中を押して北朝鮮に送り出した人たちだ。この人たちの聞き取り調査を「在日」と日本人が、共同・協働で担うプロジェクトとして、2018年に立ち上げた。http://www.kikokusya.org/「北朝鮮帰国者の記憶を記録する会」 注目いただければ幸いだ。(了)

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付記

取材した帰国者について書いた拙稿に「北のサラムたち」(インフォバーン2002年)、「北朝鮮難民」(講談社新書2002年)がある。テレビ番組としては「北朝鮮に帰ったジュナ」(NHKハイビジョンスペシャル2010年)を制作した。

※在日総合雑誌「抗路」第2号(2016年5月刊)に書いた拙稿「北朝鮮に帰った人々の匿されし生と死」を大幅に加筆修正したものです。

アジアプレス大阪事務所代表

1962年大阪出身。朝鮮世界の現場取材がライフワーク。北朝鮮取材は国内に3回、朝中国境地帯には1993年以来約100回。これまで900超の北朝鮮の人々を取材。2002年より北朝鮮内部にジャーナリストを育成する活動を開始。北朝鮮内部からの通信「リムジンガン」 の編集・発行人。主な作品に「北朝鮮難民」(講談社新書)、「北朝鮮に帰ったジュナ」(NHKハイビジョンスペシャル)など。メディア論なども書いてまいります。

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