イジメの延長で殺された?佐々木小次郎の悲惨な結末とは
剣豪として讃えられた宮本武蔵と佐々木小次郎は、山口県下関市の関門海峡に浮かぶ離島で一対一の真剣勝負「巌流島の決闘」に挑みました。
天下一の剣豪をかけたこの勝負は、60戦無敗を誇る宮本武蔵が勝利しています。
今回は、巌流島の戦いで惜しくも敗れてしまった「佐々木小次郎」はどのような人物だったのか掘り下げてみていきましょう。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・佐々木小次郎の刀
佐々木小次郎は、剣豪のなかでもミステリアスな人物です。
出自に関しては諸説あり、どこでいつ誕生したのかも正確なことは判明していません。
剣術の師匠も不明であり、当時布教していた剣術を土台に独自の剣技を磨いたとされています。
そんな彼は我流を極め、物干し竿にも例えられるほど長い刀を小太刀のように振り回しました。
独自の剣技を磨くなか、自身の必殺技「燕返し」を修得。滑空するツバメを斬り落として練習したとされるこの技は、長刀から繰り出される神速の振り下ろしが最大の強みです。
・佐々木小次郎の敗因
剣技を極めた彼の実力は、当時の小倉藩主・細川忠興が認めるほど。
細川家は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と常に時の権力者に従ってきた先見の命を持つ一族です。
そんな細川忠興に認められた佐々木小次郎は、小倉城下で剣術道場を開きました。
しかしその後、巌流島の決闘に敗れた佐々木小次郎は命を落としてしまうのです。
巌流島の決闘を再現した物語では、遅刻して登場した宮本武蔵の挑発に平常心を奪われた佐々木小次郎が翻弄されて敗北するシーンがよく描かれます。
しかし、細川家臣・沼田延元の家人が記した「沼田家記」には、全く違う真実が記載されていました。
「巌流島の決闘」の当日、宮本武蔵は一対一の約束を破って弟子4人と上陸。
その後、一対一の真剣勝負に勝利した宮本武蔵は佐々木小次郎を手当しますが、弟子4人が佐々木小次郎に駆け寄りいたぶり殺してしまうのです。
佐々木小次郎門徒の報復を恐れた宮本武蔵一行の避難を先導したのが、沼田延元でした。
・小倉城に展示される佐々木小次郎の刀
宮本武蔵と同じ道場で剣術を学んでいた頃の佐々木小次郎は、ひ弱で同生徒に虐められていたという説も。
成長した彼の努力と才能に嫉妬を感じた宮本武蔵の弟子が、鬱憤を発散するために殺してしまったのかもしれません。
今回紹介した内容は諸説ありますが、事実であるとすれば非常に残念な結末です。
現在の小倉城は、佐々木小次郎が愛用した刀を再現した模造刀が展示されています。
気になった方は足を運んでみてください。