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金正也が現役引退を発表。「プロになる時に思い描いていたほどの実力は自分にはなかった」

高村美砂フリーランス・スポーツライター
古巣・ガンバ大阪で引退会見を行った金正也さん。(筆者撮影)

■11年間のプロキャリアは「いい記憶より、悔しさの方が残った」

 9月3日。そのキャリアにおいて最も長い時間を過ごしたガンバ大阪での金正也の引退会見は、ピッチの内外でたくさんの仲間に愛され、愛した彼そのままに、どこか肩の力が抜けていて、時折笑いが溢れるような、そんな言葉がたくさん聞かれた温かい時間になった。

「こんにちは。今日はお集まりいただいてありがとうございます。上のカテゴリーでサッカーを続けたいという思いがありながらチームを探していた状況でしたが、なかなかオファーもなく、サッカー選手としてはもう区切りをつけようと思い、引退を決断しました。引退発表を自分のSNSでしか発表していなかった中で、また最後の所属チームで発表することがほとんどながら僕にはそれがなかった中で、こんなふうに在籍年数が一番長かったガンバ大阪でやってもらえたのはすごくありがたかったし、嬉しかったです」

 昨シーズン限りで藤枝MYFCを退団後、所属チームが決まらないままトレーニングを積み上げていた金が引退を決断したのは7月の終わりだった。その間にも増嶋竜也氏が主宰する『リバック・プロジェクト2022』に参加したり、伝手を頼ってJFLや関西リーグに所属するチームで練習の場を提供してもらったりしながら、Jクラブでのプレーにこだわって模索を続けてきたが、残念ながら手を挙げてくれるクラブはなく、8月15日に自身のSNSで引退を発表した。

 金のプロサッカー選手としてのキャリアは、11年に始まった。

駒澤大学を卒業後、ガンバ大阪に加入。その年のJ1リーグ開幕戦、万博記念競技場での大阪ダービーでプロデビューを実現した。

「あの試合は、めちゃめちゃ覚えています。試合が始まったら緊張はなかったですが、前日とか試合が始まる前は、今までにないくらいめちゃめちゃ緊張したのを覚えています」

 2年間所属したのち、13年のサガン鳥栖への期限付き移籍を経て14年にはガンバに復帰。レギュラー定着とはいかなかったものの『三冠』をはじめ、ルヴァンカップでの3年連続ファイナル進出や天皇杯連覇など、数々のタイトル獲得に貢献する。中でも16年はJ1リーグ開幕戦からレギュラーポジションをものにすると、キャリアハイとなる28試合に出場。センターバックとして体を張るだけではなく1stステージ4節・ヴィッセル神戸戦ではプロ初ゴールを奪うなど、シーズンを通して存在感を示した。

 7年の時を過ごしたガンバに別れを告げて、ベガルタ仙台への完全移籍を決断したのは18年。以来、3シーズンにわたってプレーしたが20年シーズンをもって契約満了に。思えば、この時もなかなか所属先が決まらなかったが、Jクラブでのプレーにこだわって模索を続け、2月に藤枝MYFCへの移籍を決めた。

 そんなふうに自身の信念を貫いたプロキャリアは11年。その時間を振り返りながら、所属した4クラブへの感謝を口にした金は「プロになる時に思い描いていたほどの実力は自分にはなかったし、結果的にそれだけの努力もできていなかったということだと思う」と締めくくった。

「ガンバでは、チャンピオンになるにはどうしなければいけないのか、巧くなるにはどうしなければいけないのか。トップ・オブ・トップの場所でプロサッカー選手として活躍するには、それに見合う技術やメンタル面、私生活がたくさん必要なんだなと思いながらプレーをしましたが、活躍はできず、自分の実力不足を突きつけられました」

「サガン鳥栖では尹晶煥監督(現ジェフ千葉監督)のもと、大学時代を思い出すようなハードな練習と向き合いました。強いチームを作るには、同じことを徹底してやることも大切だと学んだし、スポンサーの方々もすごく温かく、いろんなバランスが良いチームだったと記憶しています。鳥栖の温かいアットホームなチーム、ファン、サポーターは居心地が良くすごく楽しい1年を過ごすことができました。ベガルタ仙台は、東北の地でクラブ、サポーターが一致団結して一緒になって進んでいこうというチームでした。スポンサーの方にもすごく応援してもらいましたし、長年在籍している選手も多い、東北の思いが詰まったチームでした。その中でプレーできたのはすごくいい経験になりましたが、思い描いたようなシーズンを送ることができず、自分のサッカー選手としての未熟さも感じました」

「最後に所属した藤枝は、初めてのJ3リーグで、環境面もすごく大変でした。経験したことがないことだらけで、そこに自分を合わせるのがなかなか難しくケガもしてしまい…ただ、それも言い訳だと思っています。仮に、遠藤さん(保仁/ジュビロ磐田)なら、J3に行ったとしても絶対に活躍できるはずですが、僕にはそれができなかったというか。本当の実力があればどのカテゴリーでプレーしてもチームを勝利に導けるんだろうなと思いながら、改めて自分の物足りなさを突きつけられました。そう考えても、いい記憶より、悔しさの方が残ったプロキャリアでした。ですが、それも自分の実力で、ある意味妥当というか、自分はその程度の選手だったんだと受け止めています。にもかかわらず、タイトルを獲得できるチームに在籍できるなど、妥当と思う以上のキャリアを過ごさせてもらったとも思います」

■ガンバの強さに言及。「たやすく何かを教えてもらえる環境ではなかった」

 彼にとって唯一の『タイトル』を手にしたクラブであり、最も長い在籍年数を数えたガンバでの時間も、嬉しさより悔しさが残る時間になった。『金正也=15年のAFCチャンピオンズリーグ準々決勝第2戦・全北現代戦』とすぐに思い浮かぶほど、同試合で米倉恒貴(ジェフ千葉)が決めた劇的な決勝ゴールの『アシスト』はファン・サポーターの記憶にも深く刻まれ、語り草になっている。引退会見後、パナソニックスタジアム吹田に集まったファン・サポーターの前で行われた引退セレモニーでそのシーンがビジョンに映し出された途端、一際、拍手が大きくなったのもその証拠だろう。だが、本人はそれ以上に準決勝・広州恒大戦の記憶が色濃く残っていると振り返った。

「広州恒大戦の第1戦、クロスから失点したシーンはすごく印象に残っています。僕の目の前でヘディングを決められて第1戦を0-1で折り返し、第2戦も0-0で終わって決勝に進出できなかった。あれを防げるようにならないと上にはいけないと思ったし、引退を決めた今もあのシーンのことは鮮明に覚えています。そのくらい悔やまれるシーンであり、印象に残っているシーンでした」

全北現代戦はガンバ史上、ベスト3にはいると言っても過言ではない劇的な勝利だった。写真提供/ガンバ大阪
全北現代戦はガンバ史上、ベスト3にはいると言っても過言ではない劇的な勝利だった。写真提供/ガンバ大阪

 もっとも、引退セレモニーでは全北戦での『アシスト』について言及する一幕も。当時は「ヤットさん(遠藤)から止まってと声がかかったので止まったらヤットさんからいいボールがきた。ヤットさんのおかげです。あとはヨネ(米倉)の動き出しが素晴らしかった」とチームメイトを称えたが、この日は「あれは自分でもいいパスだったと思います」と笑わせた。

 また、かつては、同じ歳としてしのぎを削った盟友であり、互いの誕生日を祝い合うなど心を許せる存在だった倉田秋や藤春廣輝をはじめ、米倉や長沢駿(大分トリニータ)からのビデオメッセージも届けられた。

「11年間、現役生活お疲れさまでした。ジョンとは同じ歳で一緒にいる機会も多く、いつもジョンのトーク術に笑わせてもらっていました。なんと言ってもジョンとの最高の思い出はACLの時にくれた、最高のスルーパスでゴールを決めたことです。あの時の興奮は一生忘れません。ジョンが新たな道にいってもジョンの持ち前の明るさとトーク術でジョンが成功するのを応援しています。11年間、本当にお疲れさまでした(米倉)」

金をはじめ、米倉、倉田、藤春と同期が揃って掴み取った勝利でもあった。写真提供/ガンバ大阪
金をはじめ、米倉、倉田、藤春と同期が揃って掴み取った勝利でもあった。写真提供/ガンバ大阪

 もちろん、悔しい記憶だけではなく、楽しい記憶もたくさん残っている。

「毎日が楽しかった。練習も楽しかったし、みんなと会えるのが楽しかったし、呑みに行くのも楽しかった(笑)。毎日が本当に楽しかったです」

 その延長線上として、ピッチ外での思い出話にも触れた。

「ここでは言えないことも多かったですが(笑)、岩下敬輔くんをはじめ、いろんな選手が音頭をとって食事に行くとか、何かをしようとなった時に…それがいいかどうかは時代もあると思いますけど、たくさんの選手が集まってきた。あの遠藤さんが来てくれたこともあります。そうやって、みんなで試合の話をしたり、サッカーの話をしたり、全くサッカーの話をしなかったり。練習場では話せないようなことも、試合の後には時にお酒を呑みながらああだこうだと話せたのも、自分にとっては楽しかったことの1つです」

 そして、そうしたオンとオフのメリハリも、当時のガンバの強さだったと言葉を続けた。

「選手一人一人が試合に出るために、(サッカー)を仕事として、しっかりとプレーしていた集団でした。サッカーだけじゃなくて、それ以外のところでも、みんなが一致団結して戦えていたんじゃないかと思います。みんなが周りのことをよく見ていたし、ポジション争いを意識しながらプレーもしていたし、監督もそういうところを見て判断してくれていた。これは僕個人の感想ですが、『三冠』のシーズンなどは特に、レギュラークラスの選手であっても良ければ起用される、悪ければすぐに交代させられるといった平等な競争があった。またピッチ外では仲がいい仲間でありながら、ピッチ内ではいつもいいライバルでした。自分で見て、感じて吸収していかなければ自分が試合に出られないだけ、という空気が当たり前のようにあり、それができないと試合にも出られないし、活躍もないという…もちろん、自分から尋ねたら、みんなが快く教えてくれましたけど、一方でそれぞれがライバルで、誰もが試合に出るために日々の練習を100%で戦っていたので、いい意味でシビアというか、たやすく誰かに何かを教えてもらえる環境ではなかった気がします。だからこそ、僕自身もいろんな選手のプレーを見て、盗んで、自分の力にするという毎日でした。あの時代のガンバにいられたことは僕にとって本当に素晴らしく、すごく嬉しいことで、少しだけ誇らしくも思います」

 そうしてたくさんの記憶を引っ提げ、選手としての「濃くて、楽しいサッカー人生」に終止符を打った彼は今、地元である神戸市で中学・高校生を対象にディフェンダーに特化したサッカースクールを始めるための準備に奔走している。

「自身の経験、現役生活で培った知識をもとに、また、様々なクラブやサッカーを通して刺激を受けた指導者や選手から感じ取ったことも活かしながら指導にあたりたい」

 現役選手として長きにわたるキャリアで出会った、たくさんの仲間への『ありがとう』を胸に。

「僕がサッカーを始めてからかかわってくれた指導者の方々、プレーを共にした仲間に感謝を申し上げます。そして今年に入ってチームが決まらない状況で練習の場を与えてくださったたくさんの方々にも心から感謝を申し上げます。同じチームで一緒にプレーした全ての素晴らしい選手たちに、ありがとうございます。いろんな場所で知り合った友人、知人のみんなにもありがとうございました。試合や練習に足を運び、たくさん応援してくれたファン、サポーターの皆さん、ありがとうございます。最後にずっと僕を応援し、支えてくれた家族にも感謝しています。ありがとうございました。皆様、これからもよろしくお願いします。また会いましょう」。

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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