電車の中で子どもが騒ぎ出したとき、親の肩にかかる「2つの責任」を状況に応じて使い分けよう
夏休み恒例、スタンプラリーは親にとって地獄の一日。
チビといっしょに行ってきた。
「次はここ」
「……ええっと、大船ね」
「次はこっち」
「……っと、大船の次は柏かよ!」
勘弁してくれ〜。
「電車の中で自分の子どもが騒いでいるのに、注意もしない親が多い」と嘆くひとがいる一方で、スタンプラリーの様子を見ていると、電車の中で騒ぐ子どもをそれ以上に大きな声で叱る親が目につく。
そのときの親の気持ちはきっとこうだろう。
「電車の中では大きな声を出しちゃいけないってことをしっかりしつけなきゃ。でも、静かに諭しても言うことは聞かない。ああ、どうしよう。静かにしてほしい。このままじゃ、私が困っちゃう。あめ玉をあげれば静かになるかもしれないけど、それじゃしつけにならない。やっぱり大きな声で叱るしかない」
「私が困っちゃう」という部分が本音なんだと思う。
それを親自身、自覚することが重要だと思う。
単に子どもを静かにさせたいなら、あめ玉をあげる作戦もあるだろう。
しかし、「しつけ上好ましくない」という考えが交錯するからややこしくなる。
「静かにしてくれないと自分が困っちゃう」から怒りが湧いてきているのに、それを「しつけなきゃいけないから」という義務感とすり替えて、叱りすぎてしまったりすることがあるんじゃないかと思う。
「これだけ言ってるのに、言うこと聞かないなら、もう知りません」なんて、車両中に聞こえるような大声で言ってしまっている親の本音は「私はちゃんとしつけようとしてるのです。悪いのは私じゃないんです。悪いのはこの子なんです」って車両中のみんなに訴えて、「責任」を逃れたいと思っているのだと思う。
でも、それは何に対する「責任」?
「電車の中では静かにするもの」ということを伝えるのは、親から子どもへのしつけの責任。でも、実際に電車に乗っているときに子どもを静かにさせるのは親の社会人としての責任。
この違い、わかるでしょうか?
「子どもに対するしつけの責任」と「社会人としての責任」を同時に果たそうとするから無理がある。
状況に応じて、「しつける」ことと「静かにさせる」ことのどちらを優先するかというのを意識して選択すべきなんだと思う。
「電車の中では静かにする」というしつけをしたいなら、本来は電車の中ではないほうがいい。
電車の絵本でも買って、「ほら、電車の中ではみんな静かにしてるでしょ。たくさんひとの集まる場所ではお互いに迷惑にならないように、静かにするお約束なんだよ」とか言って、おうちでしっかり教えるべきなんだと思う。
電車に乗った時点でできていないしつけが、電車を降りるまでにできるわけがないのだ。
「事件は現場で起きているんだ! 会議室で起きてるんじゃない!」って名ゼリフがあるけれど、しつけに関しては、「しつけは現場でするんじゃない! おうちでするんだ!」というのが正しい気がする。
だから僕は、電車が混んでいたり、近くに怖そうなひとがいる場合は、「しつけ」をあきらめ、「静かにさせる」ことを優先する。
だから、ときとしてあめ玉を渡したり、「到着するまで静かにできたらジュース買ってあげる」と取り引きすることもある。
しつけ上は禁じ手だ。
でも、電車の中が比較的すいていて、まわりに怖そうなひとがいない場合には、電車の中でも「しつけ」を試みる。
状況によって態度が違うと、子どもが戸惑うという意見もあるが、それこそ「空気を読む力」。
親の状況判断から、子どもは「空気を読む力」を身につけるのではないかな。
★ふりかえり
わかったように書いていますが、最初は私もぶち切れてましたよ、電車の中で。でも、あるとき自分が二重の役割の板挟みになっていることを自覚しました。そこからは状況に応じた判断ができるようになりました。あめ玉作戦をしてしまうとしつけができなくなるというのは噓だと思います。子どもはそんなにバカではありません。
※2006〜2009年にポータルサイトAll Aboutで綴っていた子育てエッセイ連載を文庫化した拙著『人生で大切なことは、ほぼほぼ子どもが教えてくれた。』(集英社文庫から2023年8月21日発売)より一部を抜粋・転載しています。「ふりかえり」は現在の私の視点から15年前の自分の子育てに対するコメントです。