劇作家・井上ひさしのデビュー作再び、こまつ座『日本人のへそ』
ある作家の作風を手っ取り早く知るためには、デビュー作を読んでみるのが一番だと聞いたことがある。最初の作品にはその人が抱えているもの、一番伝えたいことが端的に現れるからだ。その意味で『日本人のへそ』は劇作家・井上ひさしのエッセンスがぎっしり詰まったような作品である。
やはり井上ひさしくらいの創作者になると、これほどの種を持っているものなのだと唸ってしまう。しかもそれは、思っていたよりもずっと泥臭くて猥雑な種である。
初演は1969年。驚いたことにこれを書いた頃の井上は「自分には戯曲を書く才能はなさそうだ」と思っていたらしい。それが熊倉一雄氏の勧めもあって半信半疑で書いたところ、できあがった舞台が自分で見てもあまりに面白かったから、以降劇作家としてやっていこうと決意できた。
そんな経緯で生まれた作品だけに、井上ひさしの好きなもの、伝えたいものが惜しげもなく盛り込まれている。「ああ、これは後のあの作品に繋がっていくのだな」という種をいろいろなところに発見できる。
幕が開くとそこにいるのは7人の吃音患者たち。エリートコースから脱落したサラリーマン、国鉄の車掌から筋金入りの右翼まで、その経歴は様々だ。「彼らの吃音は自分自身とは無関係な役のセリフを発することで治癒されるはず」という、アメリカ帰りの教授の指導の元で「吃音治療のための芝居」の幕が上がる。患者たちは、その芝居の中で様々な役柄で登場する。
井上ひさしの戯曲といえば、役者泣かせの膨大なセリフで知られるが、この作品は特にそれが凄まじい。膨大といってもそれらは韻を踏むなどの言葉遊びを織り交ぜつつ、リズミカルに続いていくから、聴いている方は心地よく楽しいのだ。基本的にコメディだから客席からは笑いが絶えない。だが時折、その中に潜む毒のある描写にどきりとさせられる。
劇中劇とも言える1幕のこの芝居だけで充分濃いのだが、2幕にはさらに、どんでん返しに次ぐどんでん返しが待っている。観る者を幻惑させる重層的な構造の中で、同じ俳優が様々な顔を持つ人物に豹変していく。
「ミュージカル界のプリンス」井上芳雄もまた、インテリ教授からヤクザまで見せるが、ヤクザを演じているときのほうが伸び伸びと楽しそうだ。いつもなら芝居を締める重要な役どころで登場しそうなベテラン久保酎吉がモブの中に交じってあちこちに出没するのも何やら可愛らしい。これらは「ギャップ」で俳優の魅力を引き立て観客を楽しませつつ、どんな人も本来このくらいの振れ幅を持っているんだよと感じさせる巧妙な仕掛けかもしれない。
その中でただひとり同一人物であり続けるのが、小池栄子演じるヘレン天津だ。東北の田舎の垢抜けない少女が集団就職で東京のクリーニング店へ。言い寄る店長を拒否してクビになるあたりはミュージカル『レ・ミゼラブル』をふと思い出してしまったが、ヘレンはファンティーヌとは違う。職を転々とし、浅草のストリッパー、さらには政治家の東京妻へ。目の覚めるような変貌ぶりで女のしたたかさを見せつける。
1幕の冒頭、ヘレンが岩手から上京する長い旅路を、車掌に扮した山西惇が遠野から上野までの全駅を連呼して表現する場がある。無事に言い切ったとき、客席から拍手喝采しながら当時はどれほど大変な旅だったかと思いを馳せたくなる。今ならプロジェクションマッピングなどを駆使しそうなところを、ただ言葉だけで表現してしまう手腕に脱帽だ。
作品の先見性にも驚かされる。半世紀以上前に書かれたのに、むしろ一周回って新しい。たとえば、2幕でこれでもかと言わんばかりに同性のカップルが登場するシーンなどは今の時代とてもしっくりくる。ダイバーシティの感覚がすでに備わった作品である。
また、全編通じて歌って踊るシーンが多く、これはミュージカルではないかと見まごうばかりである。こうしたシーンではやはり朝海ひかるのダンスの美しさに目が行ってしまう。ストリッパーのダンスシーンでさえも品が失われないのは朝海の力が大きいような気がする。
井上作品を観るたびに思うことだが、氏がご存命ならきっとオリジナル・ミュージカルの創作も手がけられたのではないだろうか。
最後のオチが分かったとき、何やら肩の力が抜けたような感覚を覚えたのは何故だろう。吃音は「言わなければならない言葉の内容」と「その患者自身の内面」との間で摩擦から起こるというのがこの作品の見立てだが、じつは日本人なら誰しもそうした摩擦に苦しみながら必死で生きている。どんな権力者も裏社会の怖い人も実は小心者、それでいいじゃない? そんな風に言われている気がして胸をなでおろしたのかもしれない。それが『日本人のへそ』というタイトルの所以なのだろうか。
いつもの井上作品はその鋭い問題提起と深い洞察ゆえに終演後にどよよんと重苦しい気分になることが多い。だが、この作品は観終わった後、不思議に軽やかな気分になった。
色々あるけれどそれでもいいじゃないか、がんばろう日本人!という気にさせられるのは、どん底でも逞しく生きる人たちの生(性?)のエネルギーが全編に溢れているからだろうか。丹田から力が湧き上がってくるような作品という意味でも『日本人のへそ』なのかもしれない。
たまたま私が観劇したのが、東日本大震災から10年目にあたる3月11日だった。節目の日にこの作品と出会えたことに不思議な縁を感じている。
聞けば、10年前のこの日もこの作品が上演されていたのだという。10年前、演劇の存在意義が問われ、そして今も再び演劇界はコロナ禍の元で暗中模索が続いている。だが、この作品から放出される「生きるエネルギー」を浴びれば、迷いも吹き飛ぶような気がする。
<公演情報>
こまつ座第135回公演『日本人のへそ』
2021年3月6日(土)~3月28日(日)
東京・紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA
・大阪公演
2021年4月1日(木)〜4日(日)
新歌舞伎座
・横浜公演
2021年4月6日(火)・7日(水)
横浜・関内ホール 大ホール
・宮城公演
2021年4月10日(土)
多賀城市民文化会館 大ホール
・名古屋公演
2021年4月17日(土)・18日(日)
日本特殊陶業市民会館(ビレッジホール)