【逃げ上手の若君】の主人公・北条時行ってどんな人??
少年ジャンプで連載中の『逃げ上手の若君』主人公・北条時行を知っていますか?
私は【1335年に北条時行が中先代の乱を起こし、鎌倉の街を一時支配をした。】くらいの認識でした。
これまでの鎌倉幕府滅亡から南北朝の動乱時代は、足利尊氏を中心に書かれることが多く、今までにない視点でこの時代を見ることが出来そうです。
そこで今回は、北条時行の生涯を見ていくことにしましょう。
鎌倉幕府滅亡と信濃へ逃亡
時行は鎌倉幕府の執権・北条高時の次男として生まれました。
ところが、1333年に幕府の御家人だった足利尊氏が後醍醐天皇に寝返り、京都の六波羅探題を壊滅させます。時を同じくして、新田義貞による鎌倉攻めが行われると、時行の父・高時を始めとする北条一族や家臣達の多くが追い詰められ自害した事で鎌倉幕府が滅亡しました。
幼い時行は、諏訪頼重によって鎌倉から落ち延び、諏訪氏の本拠地・信濃に身を置きます。
時行の生まれはハッキリしませんが、金沢貞顕書状の1329年12月22日に『今度御出生の若御前』との記述があり、これを時行を指しているのであれば鎌倉幕府滅の時はまだ4歳だった事になります。
建武の新政と北条時行の挙兵【中先代の乱】
鎌倉幕府が滅び後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、徐々にほころびが出始めて政治方針に不満を持った御家人たちが各地で反乱を起こします。
そして、1335年に信濃国で挙兵した北条時行と諏訪頼重は建武の新政に不満を持つ御家人たちを取り込み、鎌倉へと兵を進めていくのでした。その行く手を阻むのは、信濃守護・小笠原貞宗でしたが見事撃破し、関東平野に向かいます。
当時、鎌倉の守備を任されていたのが、足利尊氏の弟・直義でした。
直義は渋川義季、岩松経家、小山秀朝と言った東国の有力御家人を含む大軍を派遣しますが、時行軍はこれを打ち破り、鎌倉へ迫ります。直義は自ら兵を率いて迎え撃ちますが敗れ、鎌倉から撤退。
こうして、北条時行・諏訪頼重による鎌倉奪還が成功したのでした。
一方で、時行による鎌倉侵攻の知らせを受けた尊氏は、後醍醐天皇に時行討伐の許可と征夷大将軍の役職を願い出ますが、尊氏が将軍となって幕府を作る事を恐れた天皇から拒否されます。
そこで尊氏は、後醍醐天皇の許可を得られないまま出陣し直義と合流。時行軍が鎌倉を占拠してから20日で諏訪頼重を含む43人を自刃するまで追い詰めました。この時、諏訪頼重の機転ですべての顔がはがれており、誰が自刃したかが確認できませんでした。
戦後処理では、この中に時行がいると判断した様です。
鎌倉幕府滅亡時に幼い時行を逃がし、支えとなっていた諏訪頼重はいなくなりましたが、彼の命がけの機転により時行は再び逃げ延び、時代は南北朝時代に突入します。
こうした一連の戦乱を先代の鎌倉幕府と当代の室町幕府の間という事で【中先代の乱】と呼ばれています。
足利尊氏への復讐を誓い南朝へ帰順
鎌倉を制した足利尊氏は関東の守りを固めるためにそのまま駐留していました。
後醍醐天皇の上洛命令に応じずにいたところ、尊氏討伐命令が出され、直義や高師直らが各地で劣勢になり反旗を翻し挙兵。そのまま京に入ると後醍醐天皇は比叡山に逃れますが、抵抗むなしく尊氏と和議を結びます。
こうして後醍醐天皇は幽閉状態になるのですが、京都を脱出し逃れ大和国の吉野で朝廷を開き、京都では北朝、吉野では南朝が並立する南北朝時代が始まりました。
中先代の乱で逃げ延びた北条時行の正確な動向は不明ですが、太平記の記述では1337年前後に後醍醐天皇から朝敵解除を受け、吉野側の南朝に帰順し足利尊氏を討つ機会をうかがっていたとされています。
時行は鎌倉幕府を滅亡の原因を作った後醍醐天皇側の南朝に帰順しましたが、幕府滅亡は父・高時に非がある事を認めており、後醍醐天皇を恨んでいなかったようです。
一方で、北条氏の恩を受けて地位を向上させてきた足利氏に対しては恩を仇で返され、さらに味方だった後醍醐天皇までも裏切り室町幕府成立させたことに憤りを感じていました。
こうした事から、北条時行とその一族は、尊氏と直義への復讐を誓い南朝へ帰順したと太平記に書かれています。
再び鎌倉を奪還するが…
そして、京都を奪還するために挙兵した奥州の畠山顕家と同じタイミングで伊豆から鎌倉を目指して時行も進軍。以前、鎌倉を滅ぼした新田義貞の子も一緒に挙兵し足利方を敗走させています。
こうして再び鎌倉を制圧し、その勢いで京都を奪還すべく西へと兵を進めていきます。行軍中に有力武将たちを敗走させる活躍を見せながらも度重なる遠征の疲れが見え始めた事から、伊勢に迂回したのちに京都へ入ることに。しかし、この進路変更が失策となり、時行軍は大敗し畠山顕家は戦死、時行はこの戦いでも逃げ延び再び逃亡生活が始まりました。
1340年になると北条時行は、亡き諏訪頼重の孫・頼継と宿敵・小笠原貞宗との戦いに挑みますが、度重なる小笠原軍の猛追に兵士が持たず敗走。この戦いに関しては断定できる史料が乏しく、小笠原側にも戦いがあった旨の史料がないため信ぴょう性が低いとされています。
三度目の鎌倉を奪取
1348年頃から北朝・足利尊氏側では、幕府の執事・高師直と足利直義が政治闘争を行っていました。それが尊氏・師直派VS直義派が全国的な武力衝突【観応の擾乱】にまで発展します。
北朝の混乱を好機として畠山親房が京都と鎌倉の同時奪還を目指し挙兵。同時に、新田義貞の子たちが信濃国で挙兵し、北条時行は一緒に従軍しました。そして、再び鎌倉を奪還するのですが約一カ月程で幕府軍に奪い返され、再び鎌倉を脱出しています。
約一年程、逃亡生活を送っていましたが、1353年に足利方に捕らえられ処刑。
鎌倉幕府が滅亡してちょうど20年目の事でした。
北条時行の伝説は後北条氏に関係がある?
1353年に時行は処刑されたとなっていますが、本人はやっぱり逃亡し処刑されたのは身代わりだったとも言われています。
ここからはほぼ伝説に近い逸話ですが、逃亡した時行は伊勢に渡り【伊勢次郎】としてその生涯を終えました。
その伊勢次郎から行氏⇒時盛⇒行長⇒氏盛とその系譜をつなげていきます。
伊勢氏盛と聞いてピンとくる人もいると思います。
氏盛は戦国武将のパイオニア・北条早雲。
伊勢※氏盛(盛時) ⇒ 宗瑞 ⇒ 北条早雲 と名を変えています。
※現在は盛時が通説とも言われています。
北条早雲と言う名前は、死後に子の北条氏綱が北条氏を名乗った事から付けられました。
伝説が本当なら、後北条氏は執権・北条氏の子孫です。
逃げ上手の若君の最終回では足利方に捕まって処刑ではなく、やっぱり逃げ延びて伊勢次郎説を取ってハッピーエンドで終わりたいですね。