アイヌ新法の何が画期的なのか?~「アイヌ否定」歴史修正主義の終えん。平成の最後にアイヌ復権への第一歩
1】法律に初めてアイヌの先住性を明記
4月19日、「アイヌ新法」が参議院で可決、成立した。この新法のもっとも画期的な部分は、我が国の法律史上、はじめてアイヌを「先住民族」と規定したことにある。ではこれまでの国のアイヌ民族の先住性に対する考え方はどのようなものであったのか。
1997年(平成9年)、「北海道旧土人保護法」が廃止され、代わりに同年施行された「アイヌ文化の振興並びにアイヌ民族の伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(旧アイヌ法)では、アイヌを初めて「民族」と認めたことが画期的であったが、アイヌの先住性までは言及されなかった。
これに先立つこと1995年、村山富市内閣は内閣官房長官の私的諮問機関として「ウタリ(アイヌ語で”同胞”の意)対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置し、1996年には同懇親会から「中世末期以降の歴史の中で見ると、アイヌの人びとは当時の”和人”との関係において北海道に先住していたことは否定できない」等の報告書が提出された。
また旧アイヌ法の制定を受け、衆議院と参議院内閣委員会では、「アイヌの人びとの『先住性』は、歴史的事実であり、この事実も含め、アイヌの伝統等に関する知識の普及並びに啓発の推進につとめること」とする付帯決議が盛り込まれている。また2008年には衆参両院本会議は、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択した。
しかしながら、このような国のアイヌ文化振興への取り組みのなかでも、アイヌ民族の先住性が法律に書き込まれたことは一度もなかった。
日本は単一民族国家ではなく、アイヌがかつて現在の東北からサハリン、千島などにかけて広範に先住していたことは自明であったが、法律に「先住民族」を明記したことは、上記のような経緯からアイヌにとっても悲願であり、また先住民族の権利擁護や文化復権を求める国際的な潮流にようやく日本が追いついたことの証左であり、重ねて画期的といえる。
2】歴史修正主義者たちから沸き上がったアイヌ否定論
しかし、このようなアイヌに対する「先住性」「民族性」を真っ向から否定する歴史修正主義の動きが、2008年ごろから沸き起こる。これがいわゆる「アイヌ否定論」であり、この論の骨子は、1)「アイヌ民族は存在しない」、2)「アイヌ民族は先住民族ではない」という何ら歴史学的根拠に基づかないトンデモな主張であった。
この「アイヌ否定論」の最前衛に立ったのは、漫画家の小林よしのり氏である。小林氏は漫画という媒体を用いて、「アイヌ否定論」をぶちあげた。小林氏は取材の中でアイヌ文化研究家の河野本道氏なる人物と知己となり、河野氏の「アイヌ否定」説に全面的に依拠して、「アイヌなどいない」「アイヌは先住民族ではない」という、歴史学会では歯牙にもかけられていない「珍説」を紙面上で訴え続けた。
この小林氏の珍説に明らかに影響されたとみられるのが、北海道札幌市議会議員(当時)であった金子快之(やすゆき)氏である。金子氏は2014年8月11日、自身のツイッター上で「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいがアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不条理。納税者に説明できません」とつぶやき、一斉に非難を浴びた。
金子氏は2014年9月、このツイッター上での差別発言を理由に、所属していた自民党札幌支部連合会を除名され、市議会が辞職勧告決議を出したが辞職しないまま、2015年4月12日投開票の札幌市議会議員選挙(15年統一地方選挙)で落選した。
ところが金子氏は、つい先般行われた2019年4月24日投開票の渋谷区議会議員選挙(19年統一地方選挙)で政治団体「NHKから国民を守る党」から出馬し、当選して議員に返り咲いている。
3】アイヌ否定から沖縄ヘイトへ
もう一例は北海道議会議員(当時)であった小野寺秀(まさる)氏である。小野寺氏は、アイヌの先住性に疑問を投げかける見解を2014年に道議会で提起した。当時の紙面から抜粋する。
小野寺氏は、自民党の議員でありながら、すでに述べた通り、2008年に衆参両院本会議で、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択したことを無視する意見を公に表明したことで大きな問題とされた。この小野寺氏は2015年の北海道議会選挙において改選を迎えたが出馬せず、政界を引退した。現在では主に右派系ネット番組等に精力的に出演を続けている。
この両氏は、前後の文脈から総合的に考察しても、明らかに歴史学の「いろは」にすら接触しておらず、体系的な日本史知識というものが全く欠落していると推量される。両氏の主張は既出の小林よしのり氏による「アイヌ否定」というトンデモ論のコピーであることは自明で、この他にも北海道在住の自称アイヌ研究家などが小林氏の影響を受けて盛んな「アイヌ否定論」「アイヌ利権の危険性」等を繰り返した。
しかし、にわかに2014年~15年にかけて最盛を迎えるかにみえた「アイヌ否定論」は、その後、ネット右翼や中央の保守論壇の間では爆発的には浸透せず、代わりに彼らのデマ・トンデモ・憎悪の矛先は南方に転じて、沖縄における反基地活動家・普天間基地辺野古移設反対派への呪詛、翁長雄志前沖縄県知事らへの周到で執拗なデマ攻撃へと転換していった。
ではなぜ「アイヌ否定論」は、ネット右翼や中央の保守論壇に於いて決定的な盛り上がりに欠けたのだろうか。
4】歴史修正主義「アイヌ否定論」の終わり
その理由は、簡単に述べると以下のようになる。
1)アイヌの存在と先住性があまりにも明白で揺るぎようのない事実であること
2)ネット右翼や中央の保守論壇の中で、北海道(北方問題)への興味・関心が薄いこと
3)小林よしのり氏らが最前衛となった「アイヌ否定論」が、歴史学的な検証に耐えられるものではないトンデモ論であったために、南京大虐殺否定や従軍慰安婦への日本軍関与の否定など、同様の歴史的問題(…こぞって保守系言論人がそれを追検証するような事態)と違って「アイヌ否定論」に追従する中央の保守系言論人や研究者がいなかったこと
4)「アイヌ否定論」と対にして語られた「アイヌ利権」なるものが、まったく確認されていないこと
5)そもそも日本政府が「アイヌ民族」の存在を認めていること
などである。そして最大の理由は、
6)「アイヌ否定論」の最前衛となった小林よしのり氏が、従前から「反米保守」「アンチ・ネット右翼」の立場を採っていたことで、ネット右翼や中央の保守論壇に対する影響力をこの段階(2014年~15年時点)で著しく喪失していたこと。またそれと同様に、小林よしのり氏の漫画の商業的停滞が続いていたため、全般的な影響力が限局したものにとどまったこと
である。
こうして一時期盛り上がった「アイヌ否定論」はすぐに鳴りを潜めたが、漠然とした「アイヌ否定」「アイヌ利権」という、ネガティブなイメージがネット空間に広がったことは確かだった。しかし今回の「アイヌ新法」の成立によって、国が初めてアイヌを「先住民族」と認めたことで、こういった歴史修正主義者たちのトンデモ論は最終的かつ不可逆に葬り去られたことになった。
だが、小林よしのり氏が盛んに唱えた「アイヌ否定論」が、北海道の地方議員やその支持者たちに広がり、「なんとなくアイヌってその存在自体が怪しいし、弱者利権のにおいがする」というイメージを植え付け続けたという時点で、小林氏の責任は重いものと言わざるを得ない。「アイヌ新法」の成立によって、ネット空間に漠然と伝播されたアイヌに対するネガティブイメージが、徐々にであっても希薄化していくことを願うものである。
5】アイヌ民族史概説~中世から幕末まで~
さて本稿後半では、駆け足ではあるが「アイヌ民族はいない」「アイヌは先住民族ではない」という「アイヌ否定論」がいかにトンデモであるかを歴史的に振り返りたい。
アイヌ民族が日本(和人)の記録に初めて登場したのは14世紀の室町時代である。『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)によると、
という。この事から、室町時代の日本人には、蝦夷=アイヌが少なくとも三分類あり、また地理的な事実誤認はあるものの下北半島より北(要するに北海道やサハリン、千島)に居住する「異国人」として認識されていたことがわかる。
応仁の乱に端を発した戦国期になると、北海道南部にも和人が進出し、紆余曲折の末、松前氏(蠣崎氏から改名)が現在の函館を中心とした渡島半島南部に和人のコロニーを建設する。戦国期が終わり、徳川幕藩体制が確立されると、松前藩が成立して18世紀に大名(石高のない1万石扱い。参勤交代は遠隔地特例で6年に1回)となり、アイヌとの交易で富を蓄えた。
しかし、松前藩とアイヌとの間には交易をめぐるトラブルが多発した。その多くの原因が松前(和人)側の強権的な交易比率の改悪等であった。これが原因で17世紀中葉には最大の反和人蜂起といわれる「シャクシャインの戦い」(寛文蝦夷蜂起)、18世紀後半には「クナシリ・メナシの戦い」が現在の道東・国後島を中心として起こった。
基本的に江戸幕府は、海禁政策(鎖国)を維持しつつも、外国との接触点、つまり国境をあいまいな形にしておき、交易や通信を直接行うのではなく、特定の大名に一任し、日本周辺の異民族を服属させているという図式をとることによって、間接的に幕府の「御武威・御威光」を内外に誇示した。幕府は特定の大名に交易を独占させる特権を与える一方、そこから得られた外国情報を江戸に集約させ対外情勢の分析にあたった。
この体制を「日本型華夷秩序(にほんがたかいちつじょ)」と呼ぶ。この「日本型華夷秩序」の中で、事実上ロシアと国境を接する蝦夷=アイヌとの交易・通信を任されたのが松前藩であった。
しかし19世紀初頭になると外国船の来航が頻繁となり、幕藩体制は動揺する。特にロシア船が根室に来航し通商を要求。これを幕府側が拒否した報復として樺太や国後島等がロシア軍船の砲撃を受ける文化露寇(1806年、1807年)が起こると、応戦した松前藩、津軽藩、南部藩らの諸兵がロシア軍の圧倒的な火力の前に敗北を喫した。
このような情勢の中、幕府は1799年、蝦夷地を直轄地として蝦夷地奉行を置き(のち箱館奉行と改名)、ロシアの南下に対抗するべく軍備拡充とアイヌの同化政策を強化する。具体的にはアイヌに対し農業耕作を推奨し、日本語使用を推奨、日本服着用の許可、儒教徳目による教化、日本風の名前への改名などであった。
結局、江戸幕府の蝦夷地直轄は、一時期の松前藩への返還(1821年~1854年)を挟んで幕末まで続いた。しかしこういったアイヌへの同化政策は、幕府が滅び明治へと世が変わる時代と比べれば、まだしも穏やかな部類であった。
5】アイヌ民族史概説~アイヌへの完全な日本同化政策~
明治政府は、1869年(明治2年)、開拓使を設置し「蝦夷」の呼称を「北海道」に改名した。北海道の誕生である。また四民平等の原則に基づき、1871年(明治4年)、アイヌは「平民」に編入することが布告された。
しかし日本人平民と区別するために1878年(明治11年)、アイヌは「旧土人」と呼称することが正式に決定され、公の呼称ではアイヌは「旧土人」と位置付けられ、なんとこの露骨な差別的呼称が、本稿冒頭における1997年(平成9年)の「北海道旧土人保護法」の廃止まで使用され続けたのである。
明治政府によるアイヌへの日本同化政策は、それ以前の幕府時代と比べて極めて苛烈で、そして近代的国民国家の形成に即した急激なものであった。明治政府が実行したアイヌへの苛烈な同化政策は以下の通り。
このように明治政府が推進したアイヌへの日本同化政策は、蝦夷を北海道と改名し、開拓使を設置しただけではなかった。アイヌ民族の精神的アイデンティティを奪いつくし、経済的にも圧迫(慣れない農業への強制転換など)し、アイヌを完全に日本帝国の内側に取り込もうとした究極の同化政策を行ったのである。
前述した小野寺道議の「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない」という発言は、このような歴史的経緯に照らし合わせてみても、まったくのデタラメであり歴史修正主義であることが分かる。
そしてこの同化政策は、あろうことか平成の時代まで「北海道旧土人保護法」という名の下で事実上、続いていたのである。
平成が終わり令和の時代が到来するいま、「アイヌは我が国における先住民族である」と法律で明記されたことは、明治以来進められた近代国家の負の遺産の清算、およびアイヌ民族の誇りを取り戻す積極的動きが、ようやく平成の最後にその第一歩を記したという意味においても画期的なものなのだ。(了)
*参考図書:『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)、『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田晃、マーク・ウィンチェスター 編、河出書房新社)