『千と千尋の神隠し』に、あまりの悪臭でごはんがしなびるシーンがあるが、あれは実際に起こること?
2001年に公開された『千と千尋の神隠し』は、映画館で2300万人以上が観て、過去10回のテレビ放映では平均視聴率22.1%を記録している。
ということは、ここで採り上げるシーンも、多くの人の記憶に残っているに違いない。
それは、不思議の国に迷い込んだ荻野千尋が、神や霊たちが集う湯治場・油屋で働き始めて間もない頃のエピソード。
全身ヘドロまみれで、すごい悪臭を放つお客さまがご来館された。
カエルの従業員たちは「どうかお引き取りください」「今夜は店じまいでございます」と懸命に阻止するが、あまりの悪臭に失神してしまう。
腹を据えて迎えに出た湯婆婆さえも、顔面硬直。
注目の現象が起こったのは、担当を命じられた千尋が、ヘドロまみれのお金を受け取り、お客さまを湯殿に案内しているときだ。
先輩のリンが自分たちの朝ごはんを運んできた。
そして、彼女が「うっ!」とにおいに気づいたのと同時に、山盛りの白いごはんが、あっという間に灰色にしなびて、黒い煙をもわっと上げたのである……!
このお客さま、最初は「クサレ神」と思われていたが、その正体は名のある川の神さまで、人間が川を汚したために、ヘドロまみれの姿になられたのだった。
それにしても、においがモーレツにすごいと、白いごはんが瞬時にしなびたりするのだろうか?
◆においを感じるメカニズム
われわれがにおいを感じるのは、発生源から出たにおいの分子が、空気中を漂って鼻に入り、鼻腔内部の粘膜のにおいセンサー(嗅覚受容体)が検知するから。
人間のにおいセンサーは400種類もあるため、その組み合わせで、さまざまなにおいを嗅ぎ分けることができる。
これが、食物の選択、有毒物質の回避、捕食者接近の感知、異性の認識や誘引……などに役立っている。
腐った物や毒物を食べずに済むのも、みすみすライオンに食われないのも、子孫繁栄に邁進できるのも、においのおかげなのだ。
「においよ、今日もありがとう」とお礼のひとつも言いたくなるが、そうのんきな話でもない。
強すぎるにおいは、単に不快なだけではない。
不眠、不安、ヒステリーといった精神的影響に始まり、頭痛、嘔吐、食欲不振、動悸、血圧上昇、呼吸困難、生殖系の異常といった生理的な危機をも引き起こす。
とくに、このたびのにおいの元は、ヘドロである。
ヘドロとは、さまざまな有機物(炭素を含む生体物質)が泥と混ざったもので、その有機物を細菌が腐敗させ、硫化水素、アンモニア、メルカプタン、インドール、スカトールなど、強烈な臭気を持つガスを発生させる。
インドールやスカトールは、大便のにおいの根源。
メルカプタンは、スカンクやイタチのおならの威力の源。
硫化水素は薄ければ温泉の匂いの元だが、濃ければ腐卵臭。
アンモニアは掃除の行き届いていない公衆トイレのにおいの原因。
千尋たちがどんなにおいを嗅がされたか、ぜひ積極的に想像していただきたい。
それだけならまだいいが、いや、あまりよくないが、硫化水素は粘膜に炎症を起こし、青酸ガスなどと同様に細胞の呼吸を阻害する。
アンモニアも粘膜を冒し、炎症や腫れで気道を詰まらせ、窒息に至らしめる。
実際に、産業廃棄物の集積場や、汚泥の処理槽などで、人命にかかわる事故が起こっている。
つまり、臭すぎて死んでしまうという現象は、現実にあり得るのだ。
油屋の従業員に深刻な被害が出なかったのは、不幸中の幸いであった。
◆神さまのすごい細菌
とはいえ、いくら何でも悪臭でごはんがしなびるだろうか。
色が変わって煙を上げるのか。いろいろ調べてみたけど、悪臭そのものにそうした効果は期待できないようだ。
可能性があるとしたら、細菌ではないだろうか。
細菌はどこにでも存在し、条件が整えば増殖を始める。
細菌の個体数が一定量を超えると、人間にとって危険なレベルとなり、それをわれわれは「腐敗」と呼んでいる。
同じ現象でも、人間に有用な場合は「発酵」というが、細菌の活動の結果であることは同じである。
それはともかく、川の神さまのヘドロから細菌が浮遊して、リンの持っていたごはんに達したか、初めからごはんに付着していた細菌がお客さまのご来館によって活気づき、急激に増殖し始めたか……ということではないだろうか。
ただその場合、増殖の勢いがあまりにモーレツだ。
リンが神さまに近づいてから、ごはんが変容するまで、劇中の時間ではわずかに10秒。
どんな環境でも、ごはんが変色するほど腐るには3日くらいはかかるだろう。
すると、このたびの細菌どもは、通常の2万6千倍の速度で増殖したことになる。
さすがは神さまの細菌、もしくは神さまのご威光である。
だが、そうだとすると大変だ。
この調子では、ありとあらゆるものが猛烈な勢いで腐り始める。
細菌の活動には3%以上の水分が必要だが、宿泊入浴施設である油屋の場合、そこら一帯、湿気は充分だろう。
通常の2万6千倍の速度で細菌の増殖が進めば、山のようなご馳走は、運んでいるそばから腐って生ゴミとなり、壁も天井も床も階段もお風呂場もお座敷も、みるみるうちにボロボロになっていく。
油屋の建物があと100年持つはずだったとしても、明後日の朝には倒壊してしまうかもしれない!
従業員一同が、必死にお帰りいただこうとしていたのも当然だった。
近くにいるとごはんがしなびるような神さまは、モーレツに危険であり、千尋のがんばりによって、満足して帰られたのはまことに幸い。
などなど考えると、やはり川を汚したりしてはいけません。自然は大切にしましょう。