【京都市上京区】秀吉が京都人気質を探った大茶会は何故一日で打ち切りに! 利休切腹との因果はあるのか?
酷暑が続いていますね! 環境省熱中症予防情報サイト(外部リンク)によると2024年8月5日現在で京都府に6日も熱中症警戒アラートが発令され、この8月は6日間連続となりました。桂川でも水位が下がり、普段見ない突起物なども。国土交通省の河川パトロールも頻繁に見られるようになりました。みなさん、くれぐれも対策を怠りなく願います。
さて、8月2日から御手洗川の足つけ燈明神事などの「北野祭」が始まっている北野天満宮は境内の至る所に見所が満載です。一の鳥居から楼門にかけての参道も歴史ロマンあふれる魅力のスポットです。
「太閤井戸」は安土桃山時代に時の為政者豊臣秀吉が天正15年10月1日(グレゴリオ暦で1587年11月1日)にこの場所で開いたとされる「北野大茶会」で茶を点てる水を汲み上げたとされています。かつて松原だった駐車場内には京都市茶業組合によって、「北野大茶湯之跡」の碑も建立されています。京都所司代前田玄以の差配で、北野松原での茶之湯の準備は進められ、京、大坂、堺、大和に高札が立てられたといいます。
「北野の森において十月一日より十日間、大規模な茶会を開き、関白殿下が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開する。茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加せよ。座敷は北野の森の松原に畳二畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わない。日之本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加せよ。茶湯の心得がある者に対しては場所・出自を問わずに秀吉が目の前で茶を立てる」
北野天満宮の拝殿には座敷飾りが設けられ、傍らには広さ三間の黄金の茶室が据えられたといわれます。似茄子、紹鴎茄子、白天目、胡桃口の柄杓立、瓢箪、新田肩衝、鐘の絵、芋頭(水指)、四十石(茶釜)などなど、四十点にも及ぶ、信長以来の「名物狩り」の結果ともなる秀吉所蔵の名物が披露されたのだとか。
経堂の四隅には、千宗易利休居士、堺津田宗及、堺納屋(今井)宗久がそれぞれ、思い思いに囲いをなし、台子を飾り、はなやかに数寄を演出し、その他方一里に隙間なく、四五百の茶席が設けられました。「大木の下、松原などに、一入寂かえって囲うも有り、唐傘一本の下を楽しむもあり、荷茶屋とやらんに事よせしも有りて、いろいろさまざまな興が尽きなかった」といいます。
この時、秀吉を含む4人の茶頭のうち、やはり千利休が一番人気だったようです。果たしてこれもまた利休切腹の要因の一つだったのでしょうか? つかみ切れない京都衆の心情を探り、取り込みを図る目的で開催されたといわれるこの北野大茶会は10日の予定が急遽1日で切り上げられました。1000人近いといわれる参加者は、秀吉の眼にはどう映ったのでしょうか? 何万という軍勢を目の当たりにしてきた秀吉にはたったこれだけとなったのか? はたまた、1日で憔悴してしまうほど、大勢の人数ととらえたのか? 今となっては分かりません。
イベント打ち切りの要因は、この後、九州征伐に出立する秀吉の前にもたらされた急報が原因だとの説もあります。当日は徳川家康や筑紫の坊主(神谷宗湛)も招かれていたといいます。利休切腹の要因ともいわれる一つに、野望のために九州へ拠点を移そうとしていた秀吉が、堺衆を見限り博多衆への庇護を強めていたのが要因ではないかとの説もあります。(以上参考文献 秀吉の智略北野大茶湯大検証 淡交社)
さまざまな謎多き歴史ロマンあふれる北野天満宮へぜひ立ち寄ってみてください!
北野天満宮(外部リンク)京都市上京区馬喰町 075-461-0005