【戦国最強の剣術】ほんとうの強さとは何?徳川家康をも驚愕させた柳生の剣が、今の世に伝えるメッセージ
ときは戦国時代。今でいう奈良県の1地方に柳生(やぎゅう)と呼ばれる一族が、暮らしていました。
彼らは弱肉強食の世を生き延びるため、隠れ里に住まいながら、おのおの武術を磨いていたのです。
一説によれば伊賀忍者とも近しく、忍術さえも学んでいたとされる、いわば“つわもの”の集団でした。
そんな一族のなかでも、とくに秀才と言われた1人に、柳生宗厳(むねよし)という人物がいました。
とうじ著名な剣術道場で技を得て、次々と免許皆伝の腕前に。ついには一大勢力を築いていた戦国武将からも、わざわざ招かれるほどの実力を得ていたのでした。
剣聖への挑戦
そんな彼でしたが、あるとき“神技”とも言える剣術を誇る「新陰流(しんかげりゅう)」という流派のウワサを耳にします。
その代表は上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)という人物で、そのけたちがいの実力は“剣聖”とも呼ばれるほどでした。それを聞いて、宗厳は思います。
「ほう・・その技、いったいどれほどのものか?じつに興味深い」
そして、こんな風に考えました。
「もし、その者を打ち破ったならば、我が名は天下に轟く。さすれば柳生一族にとっても、後世にまで語り継がれる、名誉となろうぞ!」
彼は上泉に試合を申し込みました。すると「いつでも参られよ」と承諾の返答。柳生随一の使い手と、剣聖の直接対決。はたして、どのような結果になるのでしょうか。
次元のちがう実力差
木刀を構える宗厳に、上泉は忠告しました。
「試合を始めて本当によろしいか?さように隙を見せては、それがしは素手で制してしまいますぞ」
しかし当の宗厳は、すでに臨戦態勢。本気の構えをしていたつもりです。
「うぬ、我を侮るか!」とばかり、超速の一振りをお見舞い・・したと思った刹那。
気付けば、宗厳はなぜか尻もちをついていました。
そして見上げた上泉の手には、奪った木刀が握られていたのです。もはや、何がどうなったのかも理解できない、“神技”でした。
しかも、この日は上泉の弟子とも対戦し、さすがに素手ではなかったものの・・「柳生殿、構えにスキがありますぞ!」などと忠告されたうえ、敗北してしまったのです。
新陰流には文字通り、まったく太刀打ちできませんでした。宗厳の挑戦は、もはや言い訳のしようもない、完全敗北に終わったのです。
真の高みを目指して
これまで自他ともに“つわもの”と見なされてきた宗厳。この挫折は、天地がひっくり返るほどの衝撃でした。
しかし下手に善戦するより、完敗したことはかえって幸いでした。宗厳は潔く負けを認め、すぐさま上泉に、弟子入りを志願しました。
「恥を忍んでお頼み申す!剣の道を一から、あなたの元で学ばせて頂けぬでしょうか!!」
上泉は言いました。「貴殿も筋は悪くない。何より過去に固執しない、その謙虚さこそ何よりの素質。お受けしよう。」
こうして新陰流へ入門した柳生宗厳。ほかの誰よりも鍛錬に励み、師の一挙手一投足を、ひとつも見逃すまいと、学びました。
また技術のみならず、上泉の言動や振る舞いから、その生き様をも身に着け、精神的にも大きく成長したのです。そして、ついには新陰流の免許皆伝を授かる領域にまで、達したのでした。
ちなみに上泉には何人もの弟子がいましたが、免許皆伝を言い渡したのは宗厳1人と言われています。
かつて新陰流に挑み、その神技を身をもって味わったからこそ、その衝撃が彼を高みに押し上げる、原動力となったのかも知れません。
徳川家康との出会い
その後、上泉の元を離れたのちも、宗厳は独自に修行を続けました。実力のみならず、人が生きる道についても、さながら禅問答の様に追求し続け、もはや“心技体”のすべてが、仙人の様な境地へと達していました。
やがて彼は思いました。「剣術とは、敵を倒す技のみにあらず。人を活かす道へと昇華させるべし。」
かつて“無刀”の師に敗れた経験から、さらにその先の一歩。刀を持たずとも、向かってくる相手を制することができる、そんな剣術を追求。
こうして師の流派をさらなる高みへ至らせた、“柳生新陰流”を創設し、自身の息子たちを始め、多くの弟子を育てて行ったのでした。
それから時は流れ・・戦国から安土桃山へ。天下は徳川家と豊臣家が頭ひとつ抜け、2分する情勢となっていました。
そうしたなか、徳川家康が柳生新陰流のウワサを聞きつけます。そして宗厳を自身のもとへ招いて、言いました。
「音に聞く“無刀の法”とやらに、たいへん興味がある。ワシがそなたに打ち込むゆえ、その技を見せよ!ただし、手加減はせぬぞ?」
「・・承知。」
木刀を構える家康。今や日本で指折りの為政者でしたが、つねに身体を鍛え続け、剣術も磨き続けていた実力者です。そのうえ、いくら本人からの申し出とはいえ、万が一ケガなどさせては、大変なことになります。
多くの家臣も見守るなか、通常であれば、とてつもないプレッシャーと難易度です。しかし・・。
「ふっ!」
一撃を放った刹那、気付けば家康は尻もちをついており、見上げた宗厳の手には木刀が。
まさに、かつて上泉に見せられた光景の再現。師の生き写しともいえる姿が、そこにありました。家康は驚愕し、また歓喜して言いました。
「見事!その剣・・いや、剣の道はまさに天下一!どうだ、ワシに仕える気はないか?」
しかし、このとき宗厳は60才を超えていました。
自身の士官は固辞しましたが、代わりに彼の“心技体”を受け継いだ、息子を推挙。こうして徳川家の“剣術指南役”となった柳生家は、大名格として取り立てられ、江戸時代を通じて代々続いて行きました。
“天下一の兵法”と呼ばれた柳生新陰流は、やがて現代の世に至るまで語り継がれ、“柳生十兵衛シリーズ”が小説やドラマで人気となるなど、伝説となって行きました。
ほんとうの強さとは何?
さて、柳生宗厳が残し、令和の今にも伝わる教えに、こんな一文があります。
「一文は無文の師、他流勝つべきにあらず。昨日の我に、今日は勝つべし」
・・自分の知らないことがあれば、知る人から謙虚に学ぶべきである。そしてどのような道であっても、実力をつけたからと言って、他の誰かを打ち負かして、誇示しようとしてはいけない。
ただ、ひたすらに自分の成長を目指し、人格や品性を磨き続ける者こそ、本当の高みに到達できる。
彼自身の人生経験が凝縮されているからこそ、たいへん説得力があります。
・・つい他人と比べて、浮き沈みしてしまうのは人間の性。それは時代が進んでも、まったく変わらず存在するものかも知れません。
「自分はあの人より、SNSのフォロワーが少ない」
「私は世間の平均より、年収が高い!」
このような“ものさし”で、つい自信満々になったり、自己嫌悪してしまいがちです。
しかし・・
「そうではない。本当の高みとは、人間の生きる道とは、そうではないのですぞ」
ずっと何百年の時を超え、柳生宗厳はたくさんの大切なメッセージを教えてくれている。
そんな風に、思えて来ます。