彼はなぜゴーストライターを続けたのか~佐村河内氏の曲を書いていた新垣隆氏の記者会見を聴いて考える
「佐村河内さんが世間を欺いて曲を発表していることを知りながら、指示されるがまま、曲を書き続けてた私は、佐村河内さんの「共犯者」です――「全聾の作曲家」として、NHKスペシャルを初め、あらゆるメディアで称賛されてきた佐村河内守氏のゴーストライターだった新垣隆氏が、2月6日、謝罪の記者会見を行った。
今でも「共同の作品」
18年間に20曲以上を提供。その中には大編成で80分にわたる交響曲もある。それも含めて報酬は700万円前後、という。この間、佐村河内氏はいくら稼いだのだろう。CDは、『交響曲第一番HIROSHIMA』は約18万枚、『鎮魂のソナタ』は10万枚以上売れたというが、新垣氏には一円の印税も渡っていない。それでも報酬引き上げを求めもせず、今でも不満を抱いていないようだ。
『交響曲第一番HIROSHIMA』では、佐村河内氏は「中世宗教音楽的な抽象美の追求」「上昇してゆく音楽」などというイメージや主題について「祈り(救いを求め)」「啓示(真理への導き)」などというコンセプトだけを指示。旋律のスケッチさえ作っていない。それどころか、新垣氏がいくつかのモティーフを考え、ピアノで弾いて録音したものを佐村河内氏が聴いて(!!)、どれを使うか指示して、それを元に作曲することもあった、という。
それでも新垣氏は「彼との関わりの中で作品が生まれたので、共同の作品」とさえ言う。2人の関係を、「彼は実質的にはプロデューサー。彼のアイデアを私が実現する。彼は自分のキャラクターを作り、作品を世に出していった。彼のイメージを作るために、私は協力したということ」と説明。そして、佐村河内氏についてネガティヴな質問には、より慎重に、短く、最小限の答えをするのだった。
佐村河内氏はプロデューサー
当初は、短いテーマ曲をオーケストラ用の楽曲に仕上げる仕事を頼まれた。その後、次々に曲の代作を依頼される。
新垣氏は前衛的な現代音楽が専門だが、佐村河内氏の名前で発表されるのは、大衆受けのする聞きやすいもの。週刊文春の記事の中では、「彼(佐村河内氏)の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない、という思いもありました」と語っている。
その一方で、会見での新垣氏は「すべての作品は、私のできる限りの力で作り、そういう意味では大切なもの」とも述べている。
芸術家として、自らの実存をかけた作品ではなく、いわば職人として、プロデューサーの求める商品を、腕によりをかけて作っていった、ということなのかもしれない。
優れた商品だった楽曲は、佐村河内氏の「物語」と相まって、多くの人の感動を呼んでしまう。新垣氏の予想に反し、売れてしまう。マスメディアが、「物語」を拡散し、感動を増幅する役割を果たした。多くの人に曲が届けられることを、新垣氏は「うれしかった気持ちがあったことは否めません」と吐露している。
なぜゴーストを続けたのか
ただ、新垣氏がその後も代作を続けたのは、それだけではないだろう。彼が、佐村河内氏に強くこのような関係はやめたいと申し入れたのは、昨年の5月。暮れには、高橋大輔選手がソチオリンピックで「ソナチネ」を使うことを知り、再度強く申し入れたところ、佐村河内氏からは「自殺する」と脅された。だが、それまでの間、彼はなぜ黙ってゴーストライターを続けていたのだろうか。
18年間の2人の関係について聞かれ、新垣氏はこう答えた。
「最初お会いしたとき、彼は映画の仕事で自分のアイデアをどうしても実現したいという気持ちがあった。音楽に当てられた予算を大幅に超えたため、彼は自分でお金をで出して、メンバーを雇い、スタジオを借り、私が協力して作った。(当時の)彼は、自分のやりたいことを実現させるためにがんばった。このようなことがたびたびあり、彼を非常に偉いなと思っていた。彼が変質したかどうかは、私はそんなに感じてはいなかったかもしれません。彼とは基本的に、彼の依頼で、私が譜面を作り、渡すというやり取りだけの関係を保っていました。その中で、彼の情熱と私の情熱が、共感しあえたときはあったと思っています」
この発言を聴いていて、私は(大変失礼だとは思いつつ)、オウム真理教のことを思い出していた。この事件では、逮捕され、頭の中では教団のしたことは間違いだとわかっていても、なかなか教祖と決別できない元信者たちがいた。裁判になっても、教祖のことだけは証言できなかったり、口ごもってしまう。そして、古い信者ほど、犯罪とは関わりのなかった教団初期の頃を思い出しては、懐かしんだりするのだ。つい最近の平田信元信者の公判で証言した中村昇無期懲役囚や中川智正死刑囚も、自身の裁判の時にはそうだった。
佐村河内氏と新垣氏の関係は、教祖と弟子のようなものとは違うとは分かっている。そこを同一視しているわけではない。しかし、現実よりも、過去の情熱が共感し合えた時を引きずって、普通であれば、異常に感じることも感じなくなる、考えるはずのことを考えなくなる状態が続いたのは、単にプロデューサーと制作者との関係では済まされない、何かがあったのではないだろうか。その「何か」はよく分からないが……。
「物語」から「神話」へ
佐村河内氏が曲を献呈した、とされていた義手のヴァイオリニスト少女の父親のコメントの中にこんなくだりがある。
〈娘は、佐村河内氏から格別の厚遇を受け(中略)様々な恩恵を授かりましたので、それに関しては大変感謝しております。
ただここ1年ほどは、絶対服従を前提に徐々に従いがたい要求を出されるようになり、昨年11月に、服従できぬと回答しましたところ大いに怒りを買い、絶縁された状態になっておりました〉
一通のコメントで断言はできないが、佐村河内氏は、神秘性をまとった権力者として、自身の計画を実現するうえで必要な人たちを支配しようとしていたのではないか、という気がする。新垣氏も、そんな支配の構図の中に、知らず知らずのうちに絡め取られていたのではないか。
それは、必ずしも苦痛ではなく、指示をよりよい形で実現する喜びのようなものもあっただろう。自分がやっていることを自覚できないまま、「指示されるがまま」に曲を書き続けてしまった、という新垣氏のコメントは、自分の仕事の結果が何をもたらすかについて関心を持たなかった信者の状況を、ほんの少しばかり彷彿とさせる。
会見での言動を見ている限り、新垣氏は生真面目で誠実で、金銭欲や名誉欲や権利意識が希薄で、執着も薄く、自己主張が弱く、そしてあまりに浮き世離れしていて社会性に乏しく、音楽の世界だけで生きてきた、という感じがした。きっと彼は、人の善意を信じてしまうタイプだろう。彼に教わった音楽家たちは、口々に彼が本当にいい先生だった、と言っているようだ。そういう善意の人だからこそ、なおさら、佐村河内氏が全聾を装うことについても、その意図を疑うこともなく、深く考えることもなかった時期が長いのではないか。善意が無自覚を生んでしまったと言えるかもしれない。
疑うこともなく、深く考えることもなかったのは、1人新垣氏だけではない。ドキュメンタリーで記譜する場面を決して撮影させなかったのは、「おかしいな」と気がつくきっかけになると普通は思うが、スタッフはそれを疑ったり確かめたりしなかった。佐村河内氏の「物語」はいつの間にか「神話」になっていたのだろう。メディアにいて彼を取り上げる人たちは、「神話」を受け入れつつ、それをさらに増幅して、多くの人たちに届けた。音楽評論家の中にも、佐村河内氏を激賞して、「神話」をさらにグレードアップする役割を果たした人もいる。
「神話」拡散のプロセスの検証を
新垣氏が今の時点で事実を明らかにしたことで、「神話」の拡散をようやく食い止めることができた。事実が明かされないままオリンピックに突入していれば、さらに「神話」は世界規模にふくれあがってしまっていたかもしれない。それを思うと、ぞっとする。先の少女も、事実を知ってショックを受けながら、献呈された曲への愛着は失っていない、という。週刊文春で紹介されている彼女の高橋大輔選手宛の手紙には、「本当の作曲者は幼稚園の頃から発表会やコンクールで伴奏をしていただいている、とても優しい方だったのです」と書いている。記者会見の最後には、数日前に、2人で演奏した「ソナチネ」の一部も流された。真実が、2人の信頼をむしろ堅いものに、少女を成長させた、と思いたい。少女は高橋選手に精一杯のエールを送っている、きっと高橋選手にも届くだろう。遅すぎるという人はいるかもしれないが、18年という期間に、自らピリオドを打った新垣氏の勇気は、認めたい。
記者会見には多くのメディアが集まり、この問題への関心の高さを感じた。ただ、それはスキャンダルとして報じられるだけでいいのだろうか。
佐村河内氏の真の姿は明らかにされなければならない。この「神話」を作る役割を果たした人たちも、その責任を取るべきだろう。だが、化けの皮をはいで一件落着とは思わない。メディアを舞台にして、多くの善意の人によって「神話」が拡散されていったプロセスこそが、もっとも検証されなければならないものだと思う。