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「川の神」が与えた試練か、移転のチャンスか 豪雨に翻弄される蔵元の今

田中森士ライター・元新聞記者
被災した大和一酒造元では「小さな奇跡」が起きていた(筆者撮影)

熊本県南部を中心に大きな被害をもたらし、県内で65人が犠牲になった豪雨災害から、9月4日で2カ月。報道量は激減したが、被災地に足を踏み入れると、復興とは程遠い状況にあることが分かる。県南部の人吉・球磨地方でおよそ500年続く球磨焼酎(くましょうちゅう)業界では、水につかるなどして3つの蔵元で焼酎製造ができなくなった。移転か、再建か。8月下旬、経営者たちの決断、そして球磨川への思いを現地で取材した。

「母のためにも何としてでも再建したい」

熊本県人吉市から球磨川沿いに車を走らせること30分弱。道中、激しく損傷した家屋を幾度となく目にした。発災から2カ月が経とうとしているが、被災地ではまだ手付かずの場所は多い。道路が損傷しており、1車線を交互に通行する箇所が複数設けられていた。

渕田酒造本店(中央上)は線路をくぐってすぐの場所にあった。写真手前は球磨川。発災当時、水は線路と同じくらいの高さにまで達したという=熊本県球磨村
渕田酒造本店(中央上)は線路をくぐってすぐの場所にあった。写真手前は球磨川。発災当時、水は線路と同じくらいの高さにまで達したという=熊本県球磨村

球磨村役場側から球磨川に架けられた橋を渡り、左岸側へと渡る。豪雨災害のため不通となっているJR肥薩線の線路をくぐってすぐの場所に、渕田酒造本店の建物はあった。歴史を感じさせる建物。しかし、あるはずの扉がない。外と1階の空間が繋がった状態で、中は薄暗い。災害のダメージは深刻のようで、事前に入手していた発災前の外観写真とは見た目が大きく変わっている。出迎えてくれたのは社長の渕田嘉助さん(72)。創業150年を超える渕田酒造本店の6代目だ。

渕田酒造本店6代目の渕田嘉助さん。母と二人三脚で酒蔵を守ってきた=球磨村
渕田酒造本店6代目の渕田嘉助さん。母と二人三脚で酒蔵を守ってきた=球磨村

球磨焼酎の蔵元は、小規模経営であることが多い。年商数千万円規模の渕田酒造本店も、その一つだ。同蔵元が生産した焼酎の6割ほどが人吉・球磨地方で消費されており、県外での流通量はごくわずか。しかし、昔ながらの甕(かめ)仕込みの焼酎は、根強いファンも多い。特に、地名にちなんだ「一勝地(いっしょうち)」という銘柄の焼酎は、樽で長期貯蔵することで生み出されるコクと優しい甘みで人気だ。

今回の災害では、10あった3300リットルの貯蔵タンクのうち、3つが倒れた。倒れたタンクにはもともと原酒が半分ほど入っていたが、すべて流出したという。深刻なのが製造に用いる設備の被害だ。水は建物1階の天井よりも、さらに1メートル上にまで達し、蒸留や仕込みに使用する設備が使用できなくなった。明治時代に立てられた建物も、建て替えねばならない。被害額については「まだ算出できていない」というが、同蔵元の事業規模では、例え補助金を活用したとしても手出し分が経営に重くのしかかる。

酒蔵の中はタンクが横倒しになったままだった=球磨村
酒蔵の中はタンクが横倒しになったままだった=球磨村

東京の大学に在学中、5代目だった父が病で急逝。主不在の蔵元を25年間支え続けたのは、地元・一勝地生まれの母・勝子さん(93)だった。蔵の非常事態を目の当たりにし、嘉助さんも「自分が継がねば」と船乗りの夢を諦めて帰郷し、母を支えた。20数年前に経営を引き継いだ後も二人三脚で蔵を経営し続けた。

そんな母は6年前、特別養護老人ホーム「千寿園」に入居。穏やかな余生を過ごしてもらうはずだったが、今回の災害によって母は突然帰らぬ人となった。

長きにわたり蔵元を守ってくれた母のためにも「何としてでも再建したい」という思いはひとしおだ。渕田酒造本店は球磨村唯一の蔵元。焼酎文化を残さなければという使命感もある。再建の費用面の不安は大きいが、「球磨村で文化を100年、200年と残していくためにも自分がどうにかしなければ」と決意を語る。

渕田酒造本店の外観。水は建物1階の天井よりも、さらに1メートル上にまで達したという=球磨村
渕田酒造本店の外観。水は建物1階の天井よりも、さらに1メートル上にまで達したという=球磨村

幼いころから球磨川で遊んで育った嘉助さんは生まれて初めて「球磨川が怖い」と感じた。しかし、土砂が流れ出て赤茶色となった川の水は、10日もすると、元の深い青色を取り戻した。それとともに、嘉助さんの恐怖心も徐々に薄れていった。今では川に対する恐怖心は一切ないが、「また水が来るかもしれない」という警戒心は色濃く残る。敷地内の高い場所に設備を置くなど対策した上で、年内には残った原酒でまずは瓶詰め作業から再開するつもりだ。

新型コロナウイルス、そして豪雨災害

球磨焼酎は、球磨川と密接な関係にある。米のみを原料として、人吉・球磨地方の地下水で仕込んだもろみを、同地方で蒸留し、瓶詰めしたものを「球磨焼酎」と呼ぶ。この地方の米は球磨川水系の水で育てられており、球磨川がなければこの地に焼酎産業が根付くことはなかったと考えられる。そのことを証明するかのように、組合に加盟する27蔵元は球磨川に沿うように立地している。

球磨川の恩恵を受けて成立した球磨焼酎産業。蔵元は球磨川に沿うように立地している(球磨焼酎酒造組合のパンフレットより)
球磨川の恩恵を受けて成立した球磨焼酎産業。蔵元は球磨川に沿うように立地している(球磨焼酎酒造組合のパンフレットより)

球磨焼酎は、世界貿易機関(WTO)によって地理的表示の産地指定を受けている。スコッチウイスキーやボルドーワイン同様、ブランドが国際的に保護されているのだ。しかし、出荷量は減少の一途をたどっており、直近の製造年度(2019年7月~2020年6月)は1万1500キロリットルと、ピーク時の半分以下にまで減っている。

「業界全体が新型コロナウイルス感染症の影響を受けている」と語る球磨焼酎酒造組合の田中幸輔専務理事=熊本県人吉市
「業界全体が新型コロナウイルス感染症の影響を受けている」と語る球磨焼酎酒造組合の田中幸輔専務理事=熊本県人吉市

球磨焼酎は、古くから地元で愛飲されてきた。人吉・球磨地方や熊本市内の飲食店は、球磨焼酎業界の重要な消費先だ。しかし、新型コロナウイルス感染症の影響により、飲食店での消費量が激減した。球磨焼酎酒造組合の田中幸輔専務理事も、「直近の数字は確実に影響がある」と認める。そこに襲ったのが、今回の災害だった。球磨焼酎業界が置かれた状況は、あまりにも厳しい。

人吉市中心市街地の飲食店の前に置かれた自動販売機には、「なにくそ!」と書かれた紙が貼ってあった。新型コロナウイルス感染症と豪雨災害によって街は苦境に立たされている=人吉市
人吉市中心市街地の飲食店の前に置かれた自動販売機には、「なにくそ!」と書かれた紙が貼ってあった。新型コロナウイルス感染症と豪雨災害によって街は苦境に立たされている=人吉市

組合に加盟する7蔵元が被災、うち3蔵元は壊滅的な被害を受けて製造停止を余儀なくされた。さらには、球磨焼酎の一大消費地である、球磨川の右岸(北側)に位置する人吉市中心市街地の大半が水につかった。1階の飲食店のほとんどは、現在も復旧作業中だ。夜、通りを歩くとかつての賑わいが嘘のようにひっそりとしている。ビルの高層階に入居する飲食店の常連客は、「店の明かりがないぶん、星がとても綺麗に見えるんです」と悲しげな表情で語った。

夜の人吉市中心市街地。水につかった1階の店舗はほとんど営業しておらず、人通りも少ない=人吉市
夜の人吉市中心市街地。水につかった1階の店舗はほとんど営業しておらず、人通りも少ない=人吉市

「川の神」が蔵元に与えた試練

球磨村を訪れた翌日、人吉ICから車で西に10分の場所にある大和一酒造元に向かった。ここも今回の災害で大きな被害を受けた蔵元の一つ。3代目で現社長の下田文仁さん(53)が苦境とともに蔵で起きた「小さな奇跡」を明かした。

大和一酒造元の外観。「温泉焼酎」が看板商品だ=人吉市
大和一酒造元の外観。「温泉焼酎」が看板商品だ=人吉市

大和一酒造元の焼酎の特徴は、何といっても敷地内から出る温泉水を用いていることだ。人吉は良質な温泉が出ることで知られており、温泉旅館や公衆浴場が多い。明治時代に創業した大和一酒造元も昭和初期、蔵に併設した公衆浴場を経営しており、多くの地元客らで賑わっていた。その後、先代が「温泉水を焼酎に使えないか」と考えたという。10年にわたる試行錯誤の末、1986年、全工程で温泉水を使用した温泉焼酎の商品化に成功。以来、温泉焼酎は大和一酒造元の看板商品だ。

酒蔵内では温泉が出ている。焼酎造りに温泉水を活用している例は珍しい=人吉市
酒蔵内では温泉が出ている。焼酎造りに温泉水を活用している例は珍しい=人吉市

今回の災害で大和一酒造元は「財産」を失った。明治時代から受け継いできた石造りの麹室は完全に水没。原酒を入れた貯蔵タンクの大半が、倒れたり中に水が入ったりした。数年かけて開発し、もうすぐで商品化できるところまでこぎつけていた原酒も、先代が仕込んだ36年物の原酒も、水に流れた。使用できなくなった原酒は、4万4000リットル。貯蔵していた原酒の8割を失った計算になる。

発災から間もない酒蔵内の様子。原酒の入ったタンクが横倒しになっている(大和一酒造元提供)
発災から間もない酒蔵内の様子。原酒の入ったタンクが横倒しになっている(大和一酒造元提供)

発災当日、荒れ果てた蔵の様子を前に下田さんは「焼酎造りをあきらめよう」と心折れかけた。しかし翌日、他の球磨焼酎の蔵元から10数人が片付けを手伝いに訪れ、仲間たちが汗を流す姿を見て、下田さんの思いは少しずつ変化。再建を目指すと決断した。

取材の日も下田さんの知人がボランティアに駆けつけた。3人がかりで泥で汚れた瓶を洗浄している=人吉市
取材の日も下田さんの知人がボランティアに駆けつけた。3人がかりで泥で汚れた瓶を洗浄している=人吉市

すべてを失ったかに見えた大和一酒造元だが、小さな奇跡が起きていた。3メートル浮き上がった貯蔵用の甕と貯蔵用のタンクそれぞれ1つが、水が引いた後にきれいに着地。中の原酒も無事だったのだ。入っていたのは、明治以前の伝統製法で醸造した玄米の焼酎、そして球磨焼酎と人吉産の梅を用いた梅酒。下田さんは再建のためクラウドファンディングのプロジェクトを立ち上げ、玄米の焼酎と梅酒を支援に対するリターン(特典)とした。

「川の神」と名付けた焼酎の原酒を確認する下田さん。貯蔵用の甕は、浮き上がった後にきれいに着地。中身も無事だった。下田さんは「奇跡としか言いようがない」と驚きを隠さない=人吉市
「川の神」と名付けた焼酎の原酒を確認する下田さん。貯蔵用の甕は、浮き上がった後にきれいに着地。中身も無事だった。下田さんは「奇跡としか言いようがない」と驚きを隠さない=人吉市

「これらを何と名付けよう」。そう考えた時、下田さんの頭にインドのガンジス川で見た光景が浮かんだ。かつて、ゆったりと流れる大河を目にした時、「川には神様がいる」と感覚的に理解できたという。「自分たちの手に負えない、人知を超えた存在」と感じたのだ。同時に川岸では洗濯をしたり沐浴したりする人々の日常があった。「川に人々が生かされているのだ」。川に対して畏怖の念を抱くとともに、神聖な気持ちになった。人吉・球磨地方では、昔から川に住む神様を「かわんたろ(川太郎)」と呼んできた。そして、そこに暮らす人たちの生活も川と共にあった。下田さんの中で、球磨川とガンジス川がつながった瞬間だった。

「小さな奇跡」に遭遇した下田さん。玄米の焼酎に「川の神(かわんかみ)」、梅酒に「ここに生きる」と名付けた=人吉市
「小さな奇跡」に遭遇した下田さん。玄米の焼酎に「川の神(かわんかみ)」、梅酒に「ここに生きる」と名付けた=人吉市

当時の自身の思考、感情をゆっくりと思い出した下田さんは、玄米の焼酎に「川の神(かわんかみ)」、梅酒に「ここに生きる」と名付けることにした。「川の神」には、大きな試練を与えたが、すべてを奪い去ることなく、貴重な焼酎を残してくれた球磨川の神様への感謝の気持ちを込めた。「ここに生きる」は、「代々受け継いできた蔵元を同じ場所で再建する」という決意を表した。「球磨川の神様に畏怖の念を抱きつつ、これからもここで生かしてもらおう」。下田さんは再び歩み始めた。

4度の水害に見舞われ移転を決断

一方で、移転を決断した蔵元もある。人吉市の渕田酒造場だ。

古くは染物商(紺屋)の町であった同市紺屋町で創業し、140年の歴史を持つ老舗蔵元。5代目で社長の渕田将義さん(63)が取材に応じてくれた。

渕田酒造場の5代目・渕田将義さんは、「時代のニーズは何かを常に考えながら焼酎を造っている」と語った=人吉市
渕田酒造場の5代目・渕田将義さんは、「時代のニーズは何かを常に考えながら焼酎を造っている」と語った=人吉市

将義さんは、かつて大手紡績メーカーで営業職を務めていた。当時、顧客のニーズをくみ取った上での提案を心がけていた。その時の経験は、焼酎造りにも生かされている。「焼酎離れ」が叫ばれる昨今。その原因を探った。将義さんによると、焼酎には「苦み」「えぐみ」が含まれる。それを美味しいと感じる人も多いが、比較的若い世代からはあまり支持されていないことに気づいた。「苦み」「えぐみ」を極力省いた焼酎の開発を進めたところ、米の香りと甘みを感じる、すっきりとした味わいの焼酎が完成した。将義さんは、「時代のニーズは何かを常に考えながら焼酎を造っている」と説明する。

酒蔵の中に足を踏み入れると、割れた甕が散乱していた=人吉市
酒蔵の中に足を踏み入れると、割れた甕が散乱していた=人吉市

発災当時のことは「あっという間の出来事だった」という。朝早く、将義さんは酒蔵の向かいの建物にいた。防災無線から「山田川が決壊した」と「聞こえたような気がした」(将義さん)。山田川とは、人吉市の市街地を流れる球磨川の支流で、渕田酒造場とは目と鼻の先だ。この時、まだ水は見えなかったが、念のため酒蔵に移動し書類関係を机に上げた。

すると次の瞬間、ザーッと水が一気に流れてきた。机はひっくり返り、書類はすべて水に落ちた。「これはだめだ」。将義さんは慌てて酒蔵から避難した。向かいの建物にたどり着いた時には、水は胸の高さまで急激に上昇していた。その後も水位は上昇し、2階にまで達しようとしていた。「まだ上がるぞ」。将義さんは長男と3階に避難。幸いそこは安全だったが、窓から設備が水没する様子をただ眺めていることしかできなかった。

渕田酒造場の近くを流れる球磨川。将義さんによると、渕田酒造場は今回を含めて過去に4回水害に見舞われているという=人吉市
渕田酒造場の近くを流れる球磨川。将義さんによると、渕田酒造場は今回を含めて過去に4回水害に見舞われているという=人吉市

水が引いた後、将義さんは絶望した。仕込み用タンクや貯蔵用タンクは水に飲み込まれ、設備の大半が使えなくなっていた。実は、渕田酒造場は、今回を含め過去4回水害に見舞われている。毎年、梅雨や台風の時期は不安で仕方がなかった。「これまでに何度も水が来ているのだから、いずれ移転せねば」と考えていた矢先の災害だった。将義さんは「ここで再建しようとは思っていない」と胸の内明かす。

渕田酒造場のすぐわきにある電柱には、過去に水害があったことを知らせる表示があった=人吉市
渕田酒造場のすぐわきにある電柱には、過去に水害があったことを知らせる表示があった=人吉市

一刻も早く再建したいが、「ちょうどよい土地がない」。それでも、「移転先の選定と商品のブランディングはセットで考える必要がある。移転した暁には、その地域を盛り上げ、人を呼び込みたい」と前を向く。140年の歴史を持つ渕田酒造場の次の140年を見据え「移転をチャンスと捉えたい」と、自らに言い聞かせるように語った。

自然と向き合い文化を継承する

発災からしばらくの間、「暴れ川」「川が牙をむいた」という報じ方が目立った。確かにそれは事実だが、「違和感はある」と地元の人は口をそろえる。地元のある男性は、「私たちの生活は球磨川なしには成り立たない。感謝している部分もある」と明かす。今回、川の氾濫によって65人もの尊い命が失われた。だが、球磨川がなければ焼酎造りも球磨川下りも存在しえなかった。米作りもここまで発展しなかったであろう。球磨川は、人吉・球磨地方の文化や人々の生活と密接に関わっており、地域の豊かさを育んできた「母なる川」(球磨焼酎酒造組合の田中専務理事)なのだ。

人吉市在住の郷土史家・前田一洋さんは、「人間が自然にお世話になっていることを忘れてはいけない」と強い口調で語った=人吉市
人吉市在住の郷土史家・前田一洋さんは、「人間が自然にお世話になっていることを忘れてはいけない」と強い口調で語った=人吉市

一方で「川を正しく恐れる」ことも重要だ。人吉市在住の郷土史家・前田一洋さん(83)は、「人吉・球磨地方はこれまで何度も水害に見舞われてきた。しかし、時間が経つと人間は忘れてしまう。そしてまた水害が発生するということを繰り返してきた」と指摘する。地球上のすべての場所で言えることだが、山や川はもともとそこにあったもので、そこに後から人間が住み始めた。このことを念頭に、「人間が自然にお世話になっていることを忘れてはいけない。近年は『想定外』の災害が多発しており、自然に逆らった都市計画は今後改めていくべきだ」と訴える。「白岳」「白岳しろ」などのブランドで知られる業界最大手・高橋酒造の高橋光宏社長(64)も「これまで我々は球磨川の恩恵を受けて焼酎を造ってきたが、『災害は頻繁に起こるもの』と捉えて対策していく必要がある」と強調する。

7月4日の豪雨災害ではインフラも大きなダメージを受けた。2つに折れた橋が当時の水の勢いを物語る=球磨村
7月4日の豪雨災害ではインフラも大きなダメージを受けた。2つに折れた橋が当時の水の勢いを物語る=球磨村

人類の営みには「どこに住むか」という問題が常につきまとう。安全面だけを考えた究極の解は、一人残らず安全な場所へと集団移転することになろう。しかし、住んでいる人からすればそこは大切な土地であり、生業と密接につながっていることもよくある。リスクのある土地だからと言って、住民全員が引っ越すということは現実的に困難だ。だとすれば、災害対策を先送りにせず、迅速かつ柔軟な対策を常に進める必要がある。同時に、前田さんの言葉を借りるならば、自然に逆らうような新規の都市計画は止めるべきだ。一方で、私たちが人間である以上、文化の継承は大切なものだ。自然と共生しつつ、いかにして文化を残していくか。球磨焼酎業界の取材から見えた課題は、あまりにも大きい。(提供写真を除く写真はすべて筆者撮影)

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】

ライター・元新聞記者

株式会社クマベイス代表取締役CEO/ライター。熊本市出身、熊本市在住。熊本県立水俣高校で常勤講師として勤務した後、産経新聞社に入社。神戸総局、松山支局、大阪本社社会部を経て退職し、コンテンツマーケティングの会社「クマベイス」を創業した。熊本地震発生後は、執筆やイベント出演などを通し、被災地の課題を県内外に発信する。本業のマーケティング分野でもForbes JAPAN Web版、日経クロストレンドで執筆するなど積極的に情報発信しており、単著に『カルトブランディング 顧客を熱狂させる技法』(祥伝社新書)、共著に『マーケティングZEN』(日本経済新聞出版)がある。

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