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<ガンバ大阪>MF二川孝広、36歳の決断。 あの『パス』を新たな舞台で。

高村美砂フリーランス・スポーツライター

いつか、この日が来るかも知れないという覚悟。

いつまでも、この日が来て欲しくないという願い。

そんな相反する二つの考えが、頭に浮かぶことが増えたのは、二川孝広の出場機会が減った2014年シーズンの終わり頃からだ。確かな技術に裏付けされた極上のパスセンスと戦術眼、ファンタジスタにかけて『ファンタジフタ』と愛されたプレーの数々をピッチで楽しめる機会が徐々に減り始めていく中で、それでも変わらず淡々とサッカーに向き合い、試合に向けた準備を続ける『10』の姿を見続けてきたからこそ、その二つの考えは頻繁にぶつかるようになった。

それはおそらく二川自身も同じではなかったか、と推測する。もっとも、彼にとってアカデミー時代を含めれば20年ものときを過ごしたガンバ大阪だからこそ、言葉にできないほどのクラブ愛を備えていたことも、慣れ親しんだ青いユニフォームに誇りを持って戦い続けてきたことも事実だ。だが、一方で、主力選手として数々のタイトル獲得に貢献し、痺れる戦いを続けてきたからこそ、それを味わえなくなっている現実に、その現実から抜け出せなくなっている自分に、危機感を抱いていたのではないか、と。

「20年以上も在籍してきたガンバ大阪に愛着という言葉では表現しきれないほどの深い想いを抱いていたのは事実です。ただ、36歳になり、どう考えてもプロサッカー選手としての後半を過ごしている中で、このままでいいのかと考えるようになったというか…『タイトルを意識しながら痺れる試合を戦いたい』という一心で、それを最大の楽しみに現役生活を送ってきたし、それが僕を駆り立ててきたモチベーションだったからこそ、今一度、それを自分に求めたいと考えるようになった。特に今季は、育成に重きを置いたU-23チームでプレーすることが増えていましたからね。そこにオーバーエイジ枠でプレーする自分と、『タイトルを意識しながら痺れる試合を戦いたい』という思いが、どうしても自分の中でうまくリンクさせられず…だから、東京ヴェルディからのオファーにも心が動いたんだと思います」

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ガンバ大阪での20年強もの月日において「たくさんのタイトルを獲れたことが一番の思い出」だと語るように、二川にとっての『痺れる試合』とは、『タイトル』を争う戦いを指す。

その最初の喜びを味わったのは、05年のJリーグ初制覇だ。優勝を決めた最終節の川崎フロンターレ戦こそ、その2試合前の大宮アルディージャ戦で左膝を痛めて出場はなかったが、34試合中24試合で先発出場を果たしたこのシーズン。数々のスルーパスで攻撃陣を加速させてきた彼は間違いなくチームのど真ん中で、その歓喜を味わった。

「試合中は、ずっと携帯で他会場の結果を見ていました。ガンバは勝つと思っていたから、とにかく他のカードが理想の結果になればいいな、と願っていました。本当に嬉しいです…え? あまり嬉しくなさそうですか? いや、これでも、めっちゃ喜んでいます(笑)。1年間やってきたことが優勝で報われました」

そのタイトルを皮切りに、かつては『弱小チーム』と言われたガンバ大阪の黄金時代は幕を開ける。07年のヤマザキナビスコカップ初制覇、08年のAFCチャンピオンズリーグ初制覇、08、09年の天皇杯連覇、そして14年のクラブ史上初の『三冠』など、その数13。

中でも二川が一番印象に残っているタイトルに挙げたのは2つある。ある意味、二川らしいとも言える「僕にとっての初ハワイ行き(注:パンパシフィッフ選手権への出場権)が懸かっていたので、絶対に勝ちたかった(笑)」とやや不純な動機を白状した07年のナビスコカップと、08年のACL優勝だ。前者では予選リーグ6試合全てに先発出場を果たし、決勝トーナメントでも準決勝第2戦と決勝戦の2試合に先発出場して、ナビスコ初制覇に大きく貢献。また後者では、グループステージの6試合全てと、決勝トーナメントの準々決勝第2戦をのぞく5試合全てに先発出場し、クラブ史上初となるアジア制覇の立役者になった。

中でも特筆すべきは、グループステージに始まった『アジア』での圧巻の存在感だ。3戦全勝を飾ったアウェイ戦では、芸術的とも言えるスーパーゴールを連発してチームを勢いづけると、決勝トーナメントでも常にチームの窮地を救う活躍を魅せた。現に、決勝戦では、ホームでの第1戦に、均衡を破るFWルーカスの先制ゴールを絶妙のスルーパスでアシストすると、アウェイでの第2戦でも、1-0でリードを奪った中で迎えた14分に、相手のDFラインを切り崩す絶妙なパスをFWルーカスに送り込み、優勝を決定づける決勝ゴールをアシスト。恵まれた体格を武器に肉弾戦を繰り広げるアデレード・ユナイテッド(オーストラリア)の選手に対して、『小さな巨人』は、絶妙なリズムを奏でるパスで相手を翻弄し、リズムを見出し、勝利を後押しし続けた。

「大会を通して振り返るなら、一時はどうなるかと思うような流れもあり、苦しんだ時期も過ごしたけど、それでも全員で決勝まで繋げて、チャンピオンになれた。嬉しいというより、ホッとしている。とにかく、楽しかった。またこの舞台を戦いたい」

余談だがこのシーズンの心残りがあるとすれば、彼自身も楽しみにしていたクラブワールドカップをケガのため1試合しか戦えなかったこと。準々決勝のアデレード戦は先発出場し、先制ゴールの起点にもなったが、その試合の終盤にケガを負い、楽しみにしていたマンチェスター・ユナイテッド戦はピッチに立てなかった。

「マンU戦を戦うことがある意味、クラブワールドカップの一番のモチベーションだっただけに悔やまれます。アデレードとはACLでも2回戦って、クラブワールドカップで3度目の対戦だったので、お腹いっぱいだったのにまさか、そのアデレード戦で僕のクラブワールドカップが終わるとは…ま、こんなもんですね(笑)」

だからーー。そうした数々のタイトルを争い、獲得する喜びを実感し、それを「できる限り、何度も味わいたい」と欲して来た彼だからこそ、近年、いや、特に今季はガンバ大阪U-23でプレーする中で、心の葛藤に苦しんだ。

もちろん「自分のためのサッカー」だと思うからこそ、戦う場所がどこであっても、自分に手を抜いたことも、向上心を失ったこともない。トップチームとは完全に切り離されて行われるU-23チームの練習は、時に、若い世代の代表に選手が抜かれることもあるため、わずか6選手で行われることもあったが、そういう中にあっても、黙々とやるべきことに集中し、練習が終われば必ず、一人、クールダウンのランニングを続け、練習場をあとにした。それはU-23監督を務める實好礼忠氏も認めるところで、氏は常々「練習でも、試合でもフタのサッカーに対する姿勢は常に、若い選手にいい影響力を与えてくれている」と評した。

J3リーグで戦う姿を見てもそれは然りで、ピッチでは相変わらず言葉数も少なく、ともに戦う若い選手に向かって言葉で何かを伝えることこそなかったが、彼がピッチにいるとき、いない時で明らかに試合のリズムが変わり、攻撃が加速したのは、彼がそのプレーでメッセージを送り続けてきたからだ。それを受け取ってきた若手選手の言葉が、それを如実に物語っている。

「フタさんを信じて走れば、必ず絶妙なタイミングで、絶妙なパスが出てくる。あのパスを受けるのがたまらなく楽しかった(MF平尾壮)」

「フタさんのパスを感じられたことは、トップチームでのプレーを目指す上でいつも指標になっていました(FW妹尾直哉)」

だが、それに対して、彼自身はどうか。

若手の育成をサポートする立場にある自分に納得をしていたのか。そうしてチームに必要とされることで彼の中から『タイトルを意識しながら痺れる試合を戦うこと』への欲は薄れていったのか。そして、心の底からサッカーを楽しめていたのか。

答えはノーだ。

であるならば、彼のプレーを愛してきた誰もが、「いつまでも、この日が来て欲しくないという願い」を捨てるべきなのだろう。二川がガンバ大阪以外のユニフォームに身を包むことを、受け入れなければいけないのだ。と同時に、その事実を悲しむ必要はないのだと思う。在籍選手の中では、チームメイトとして二川ともっとも長い時間を過ごしてきたMF遠藤保仁の言葉がそれを教えてくれる。

「フタがいなくなって寂しいかって? いや、全く寂しくないよ。僕としては、ボールを蹴っていないフタを見られないほうが、よほど寂しいから」

その通りだ。ユニフォームの色は変わっても、我々はこれからも彼の才能を『ファンタジフタ』のプレーをピッチで楽しめる。痺れる試合で痺れるプレーを連発するであろう彼に会える。だからこそ、36歳でくだした彼の決断に、今はただ、心からのエールを送ろうと思う。

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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