現代のベートーヴェンは現代の「一杯のかけそば」佐村河内守氏作曲問題
記者会見会場から
http://live.nicovideo.jp/watch/lv168278903
現代のベートーヴェンは、現代の一杯のかけそば。
音楽は作品がすべてだった。いや、はずだ。
そこに、天才や全聾とか広島被曝2世…などのストーリーがさらに加味されて、感動がひとり歩きしていく。
何らかの理由で、ゴーストライターが現れたことにより、感動した涙を汚されたと憤慨する人がいる。
音楽のゴースト、書籍のゴースト、アクションスターのスタント、通信販売の使用者の実感、選挙時の政治家のマニフェスト。
寿司ネタやホテルでも食品偽装。カロリーゼロという名の果糖ブドウ糖液糖飲料、アミノ酸だらけのダシの元。
世の中には、嘘と欺瞞があふれている。
昔、「一杯のかけそば」というお話があった。映画化までされた。日本人の好きな立身出世と人徳をといたお話だ。
しかし、その作者が、詐欺歴が、あったことが露呈し、「一杯のかけそば」の話を誰もしなくなった。
感動のお話も作者にケチがつくとすべてにケチがつく。「一杯のかけそば」もなかったことになっている(笑)
今回の佐村河内守さんのお話ほど、聞かなきゃ良かったという話もない。なんだか、とても、悲しい気持ちになる。
岩手のコンサートに訪れた人に感想をわざわざ聞きに行くメディア。流した涙がムダになったというコメントをとるというシナリオがある。
ボクは、だます人よりも、騙されたことを嘆く人の発言のほうが非常に気になった。みんな、音楽で感動していたのではなかったからだ。
特に素人が立ち入りにくいクラシックの世界にようやくスターが現れたばかりなのに。
ゴーストライター氏の堪忍袋が切れる何かがあったことは確かだろう。
もし、新垣氏が、プロのゴーストライターだとすると、プロとして失格だろう。
影武者とは本来そういうものだからだ。
そして、障害者だから名曲と礼賛するメディア側も大きな問題。
障害者であるかどうかは、音楽にはまったく関係のないはず。
さらに、障害がないという証言も。
…そうであれば、れっきとした虚言癖という障害のひとつかもしれない。;
今回の文春のスクープ、謝罪会見、ソチオリンピック前の発表。
一体誰が、この件で得をしたのだろう。
高橋大輔選手がソチでこの曲を踊るかどうかも大きな話題となるだろう。
高橋選手は、絶対にこの曲で踊るべきだ。
完成した「曲」は、もう作者のものではない。ユーザーに委ねられている。
こんなことで、いままでの練習をかえるべきではない。全力で望んでほしい。
そして、我々は、オリンピックでこの曲の最後の「レクイエム」を静かに見届けるべきだろう。
「一杯のかけそば」は今読みかえしても涙する話だ。
それが、どんな人が書いたかは別として…。
1972年(昭和47年)の大晦日の晩、札幌の時計台横丁(架空の地名)にある「北海亭」という蕎麦屋に子供を2人連れた貧相な女性が現れる。閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると母親が「かけそば(つゆが入った器に茹でた麺を入れただけの、種を入れていない蕎麦)を1杯頂きたい(3人で1杯食べる)」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出された1杯(1杯半)のかけそばをおいしそうに分け合って食べた。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった「北海亭」のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。「北海亭」の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日、母とすっかり大きくなった息子2人が再び「北海亭」に現れる。子供達は就職してすっかり立派な大人となり、母子3人でかけそばを3杯頼んだ。
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%AF%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%9D%E3%81%B0