霞が関での実体験から考える「忖度」の行動原理
森友・加計問題など、政治と官僚の関係について注目が集まっている。文科省の局長の逮捕も含めて、特に官僚の行動がこれほど報道されることは近年ではあまりなかったのではないか。
森友・加計問題では、一強支配ともいわれる安倍政権に対する官僚の「忖度」が問題となったが、官僚の政治家に対する意識、行動原理はどのようなものなのか、「政と官」の関係はどのようにあるべきなのかを、実体験を踏まえて考えていきたい。
霞が関に根付く過剰防衛の文化
私は国会議員の秘書を約4年、国家公務員(任期付き常勤、政府が裁量で任命するいわゆる「政治任用」での内閣府行政刷新会議事務局参事官)を約3年半勤めた。
政治の世界を経験した後に霞が関で働く中で、いわゆる「政と官」のいびつな関係がいくつも見えた。
私が経験した一例を挙げる。
ある省庁の幹部が大臣に政策に関しての説明をし、終わった後の雑談の中で、「そういえば昨日、○○という公益法人の前を通ったんだけど、建物はあんなに大きいんだね」と大臣が言ったとのこと。その話はそれで終わったのだが、話を聞いた幹部は大臣への説明から戻ってきた後に、その雑談に関連しそうな部署に連絡をし、「大臣がこのように話していたので、○○法人の業務内容や最近の国費の投入額、国会で話題になったことがないかなどを、調べて資料を作っておいてほしい」との指示。
大臣の言葉だけでは、その公益法人を問題視しているのか、単に聞いたことのある法人だったので口に出しただけなのかがわからない。その状況で色々な資料を用意するよりも、その法人について資料を用意する必要があるかどうか、必要がある場合、どのような情報がほしいかをひとこと大臣に確認すれば準備しやすいし無駄がない。しかし、「大臣に聞く」という行為は、重大な局面になってから、という意識が官僚にはある。なぜなら忙しい大臣の時間を取るのは大変であるため、ある程度形が整わなければ大臣に質問してはならないという「文化」があるからだと思うし、だから、官僚は「忖度」をするのだろう。
この時は、私から大臣に連絡をして、「このような指示が出ているけどどのような問題意識でしょうか?」と聞いたところ、「いやいや、資料を用意してもらうようなことではない」との返答で作業は発生しなくなった。私はもともと大臣とともに仕事をしたことがあり、先述したように「政治任用」で省庁に入った立場だったので、必要があれば質問しやすい状況にあったが、官僚は「文化」があるためそのような状況にはならない。
森友・加計問題でも見られるが、官僚は政治家をとても意識する。政務三役(大臣、副大臣、政務官)への対応になると殊更そうなる。先述のように大臣がおもむろに呟いたことなど一挙手一投足を見逃さず、「忖度」をしてその呟きから考えられる選択肢をすべて用意し、どこに転がっても答えを出せるように思考を巡らし資料を準備する。
この姿勢は、大きな案件をいくつも抱え細かい説明をしている時間のない立場にいる人間を支えるという意味ではとても重要なことだし、その意味で「忖度」自体が悪いわけではない。ただし、それが本質的なことなのかどうか、またそのためにかかる時間と労力も考慮する必要がある。大抵、大臣の呟きを聞く立場にあるのは秘書官や幹部職員であるが、彼らが資料を作るわけではないので、「忖度」のしわ寄せが若手職員に来てしまうこともある。さらに、「忖度」したことが実は違っていた、ということも起きてしまう。「忖度」の結果、必要のない業務に時間を割いてしまい、本当に手をつけるべき仕事が後回しになるとしたら本末転倒だ。
政務三役ではない一般の国会議員に対しても、伝聞情報に右往左往したり、資料要求や党の会議での発言を受けて「こんなことが想定される」「個別に訪問して説明しておいた方が良い」などの議論を重ねたりもする。「その点を気にするよりも組織として何が正しいかを考えた方が生産的では」と思うこともあったが、官僚にとって政治家の機嫌を損ねることは、物事が進まなくなる可能性が出てくるという点においてとても恐ろしいことなのだ。
政と官から見える「景色」の違い
このような思考パターンになっている一つの要因として、官僚がことあるごとに政治(やメディア)に叩かれ続けたからではないかと感じている。
議員の言っていることに反論すれば、「官僚の巻き返し」などと書かれる。議論の内容を見て書かれるならば仕方ないし実際そのようなこともあったと思うが、多くは議論の中身ではなく、政治の考えに官僚が反論しているという「構図」のみが注目され、官僚が「悪役」に仕立てられてしまう。すると官僚は委縮し、政治家に表立って異見・反論することよりも、話を合わせることに注力してしまう。つまり、「得点」を取ることよりも「失点」をしない仕事の仕方が優先的になっているように感じる。
余談ではあるが、同じ一つの事柄であっても政治の世界からと官僚の世界からでは、見える景色に違いがあると感じた。
国会議員の秘書をしていた時は、政党の会議で政府の取組みのヒアリングなどの議論を聞いていて、なぜ議員の質問に役所側はしっかりと答弁しないのか、と腹立たしく思ったこともあった。しかし、官僚となり反対側に座ってみて感じたのは、質問の趣旨や意図がわからない質問が多いことだ(ただし、官僚も聞き返すことはせず「先生ご指摘の通り」などの枕詞を使って、わかったようなわからない答弁をすることも多い)。
時には質問をして官僚が答弁をする前に質問をした議員本人が退席してしまうこともあった。他の予定もあり中座せざるを得なかったのだと思うが、ならば質問をした理由がわからないし、「この案件について質問をした」という事実だけがほしかった(例えば関係団体に対してのアリバイ作りなど)のではないかと邪推すらしてしまう。
批判から建設的議論への転換
過度な「忖度」には官僚の政治への萎縮という背景があり、本質とはかけ離れた部分での過剰な準備や若手官僚の負担増加などの問題点があると述べてきた。
私は多くの官僚と一緒に仕事をしてきて、能力も非常に高いし人間的にも素晴らしい人たちが多くいると実感した。ただ、その能力が、違うベクトルに向いた時には、非効率・非生産的にもなるし、全体最適ではなく、矮小化された部分最適に向くこともある。
「官僚の信頼度」について、今年1~2月に読売新聞と早稲田大学現代政治経済研究所が共同の世論調査を行ったところ、「全く信頼していない」が20%、「あまり信頼していない」が50%という結果だった(政治家については同じく25%、52%の順)。少なくとも官僚が信頼されている職業とは見られていない。
当然だが、「政と官」は切っても切れない関係だ。政治が大きな方向性を定め、官僚がその方向性を具体的な形にしていく。仮に間違いがあれば政治が責任を取る。それによって官僚は失敗を恐れずに仕事しながら、同時に政治を支えることができる。
今回の森友・加計問題で、「官僚は悪いことをしている」と切り捨てることはある意味で簡単だ。しかしなぜこのようなことが起きてしまったのか、官僚だけの問題ではなく、政治、メディア、そして私たち国民の問題として、その背景を探り、あるべき姿・関係をどうやったら築けるかを考える必要もあるのではないか。